狼獣人の優しい溺愛 前半

※別PNにて某サイトで公開していました


「ホンマくん、これも処理しておいて」

 灰色の毛皮に包まれた他部署の同僚から一枚の領収書を手渡され、欄に記載してある金額を確認して受け取る。僕より頭一つ分ほど背が高く、黒い隊服を着た同僚は、僕が領収書を受け取ってからも、頭上から僕を見つめているのが分かる。

「た、確かに受け取りました」

 その不躾な視線に、何か失礼なことをしてしまったのかと不安になってしまう。その不安から喉が塞がり、思わず声が裏返ってしまった。相手はそんな僕の様子を見て、「よろしく」と言ってフロアを出て行った。僕はほっと息をついて、自分のデスクで受け取ったばかりの領収書の処理を始めた。

 ここは、「ウルフワム・日本共同防衛省」、通称「共同防衛省」の経理部があるフロアだ。本日、四月三十日は省の下半期の経費清算の締め日である。フロアにいる経理部の職員は全員忙しない様子で、手元の紙を見つめながら、目の前のパソコンに数字を打ち込んでいる。

 先程、僕に領収書を手渡した同僚は、灰色の毛と鋭い牙を持つ狼獣人だ。彼らの背丈は僕より頭一つ分は高く、服の上からでも肩幅や足腰の頑強さが分かる。それに対して、僕は黒目黒髪という一般的な日本人の見た目をしている。人より大きく垂れがちな目はよく「眠そう」と言われるくらいで、特に目立つ点はない。口と鼻が小さいため、幼く見えるところは密かなコンプレックスだ。身長は百六十五センチメートルで止まり、筋肉がつきにくい体質で、狼獣人に小突かれただけでよろめいてしまうだろう。いつまで経っても小柄なままで、今もスーツに着られている

 東京湾の真ん中に浮かぶ共同防衛省には、狼獣人と日本人という二つの種族が働いている。その理由は、僕の故郷である日本が二千百年頃に、狼獣人の国である「ウルフワム」という国に統合されたからだ。ウルフワムの人々を指して、狼獣人と呼んでいる。

 ウルフワムは最新の叡智を持った狼獣人達が治めており、古来より太平洋の真ん中にあったのだという。しかし、狼の見た目を持つ彼らが、他の種から迫害されるのを防ぐため、彼らは高度な技術で国全体を隠し、他国のレーダーや航空写真に映らないようにして、ずっとその存在を秘してきた。

 そんなウルフワムがある日、日本に使者を送って来た。その使者は「ウルフワムは日本と和平条約を結びたい」と言った。しかし、提示された和平条約の内容はどう見ても日本側に不利なものが多く、対等な関係での条約ではなかった。

 しかし、その頃の日本は既に先進国としての地位を失い、国力を欠いていたため、その要望を一蹴することができなかった。資源がない上に、世界各国の技術レベルが上がったので、日本で加工して売れるものが無くなってしまったのだ。財政は赤字が続いており、国が破綻する可能性もあったほどで、とてもじゃないが戦争なんていう手段は取れなかったと聞いている。

 ウルフワムの要求を聞いて、当時の日本政府は、最初は突然のことに驚き、慌てふためいたものの、ウルフワムの技術力の高さと和平条約の見返りとしてもらえる和平協力金の金額を見て、直ぐにその要求を受け入れた。

 ウルフワムでは金と石油が大量に採れる。ウルフワムは昔から、その金と石油を裏でウルフワムが経営するダミーの企業を経由して、巨万の富を得ており、財政的には当時から非常に潤った国だったのだ。こうして、ウルフワムは、日本政府に対して多額の和平協力金を支払い、日本の国土の一部割譲と政府のコントロール権、そしてありとあらゆる場面で日本国民と同等の権利を得たのだ。ウルフワムの豊富な資源と技術力の高さを目の当たりにした国々は、日本だけを属国にして他の国に手を出さないのであればそれでよいと考え、ウルフワムはあっさりと国際社会での地位を認められた。それが今の二千二百三年から約百年前のことだ。

「この領収書も処理しておいて。って、えーと、あー、そこの黒髪くん」

「は、はい」

 和平条約が結ばれてから、日本人とウルフワムは同等の国民であるという建前ではあるものの、実際は肉体的にも頭脳的にも優れた狼獣人に頭が上がらない日本人の方が多い。現に、今やってきた他部署の日本人は、出入り口に一番近い場所に座る狼獣人の同僚ではなく、少し離れた場所にいる僕を呼びつけた。

 そんな豊かな資源と優れた技術を持つ彼らが、二千百年になって存在を明らかにした理由は、ウルフワム内で原因不明の熱病が流行り、狼獣人の女性が少なくなったからだと聞いたことがある。そもそも性別に関係なく狼獣人は妊孕力が低く、狼獣人同士だと子を成すことが難しいらしい。子を成しづらいことに加えて、狼獣人の女性もいなくなってしまったために、開国することに決めたのだという。

 そして、人間の生殖能力の高さと日本人の見た目に目をつけたのだそうだ。狼獣人と日本人の遺伝子は強力に結合しやすく、子どもが出来やすいと聞く。また、狼獣人は総じて小さいものに愛欲を感じ、また黒色の毛皮は高貴さを感じさせるそうで、狼獣人よりはるかに体格が劣り、黒髪を持つ日本人は彼らのお眼鏡に叶ったらしい。ちなみに、狼獣人の男性は、交配する人間の性別に関係なく子を成す力がある。彼等の精子は男性の腹に仮腹を作る効用があるらしい。

 ウルフワムの人々の最大の特徴は、狼と人間を掛け合わせたような姿形をしていることだ。狼獣人は、男性は平均して百八十センチメートル、数少ない女性も百七十センチメートルはあり、男女ともに筋肉質な身体つきをしていて、顔は狼特有の凛々しさを持っている。そして、狼獣人の多くが想像できないくらいに理知的な性格をしており、全ての狼獣人は日本語を話せる。それに対して、日本人でウルフワムの言語を話せる人はいない。

 とても賢い狼獣人だが、読み方が何通りもある漢字が苦手のようだ。特に人名は日本人でも読み方が難しいことが多い。狼獣人は名前を大切にするため、言い間違いは避けたいと、ウルフワムと和平条約を結んでからは、日本人はカタカナの名前を用いているようになった。

 僕の名前はヒビキ・ホンマで、ホンマがファミリーネームだ。約百年前、つまりウルフワムとの統合前は、日本人はファミリーネームの後に名前があったらしいけど、今ではすっかり馴染みのない文化になってしまった。

 そんな風に日本の文化と社会をがらりと変えたウルフワムとの和平条約により、僕が働くウルフワム・日本共同防衛省も設立された。名目上は二国の和平の証という意味を込めて設立された政府組織で、日本の各地に支部があり、本部は東京湾の埋め立て地に建てられている。

 共同防衛省は両国の軍事面のことを管轄していて、主な仕事内容は、両国間の防衛面に関する監視・威嚇や、共同して行う軍事演習の指揮監督などだ。もちろん有事の際には兵を出す役割も担っている。そして、そういう役割を持つ共同防衛省はいわゆる内勤と実働部隊で構成されている。内勤は経理部や総務部、法務部で、日本人が多く働いている。隊服は着ず、スーツで働いている。

 実働部隊は陸上部隊、海上部隊、航空部隊に分かれており、それぞれのフィールドに特化した訓練を行っている。実働部隊は大半が狼獣人だ。狼獣人は身体能力に優れており、戦闘に関しては向かうところ敵なしであるからだ。黒い隊服が制服で、襟に所属部隊のバッチを着けている。

 僕がいる部署は経理部で、共同防衛省の運営に関わる様々なお金を扱うところだ。各省庁との予算折衝や給与の支払いなどをやっている。経理部は手先が器用で細かな作業が得意な日本人が多く配属されており、僕はその中でも若手だ。僕はこの共同防衛省に二十歳で入省して、あっという間に二年が経ってしまった。今年の四月で三年目に入る。

 まだまだ仕事のやり方は覚えきれていないが、上司や先輩は新人にかかりきりなので僕ばかりに時間を割いてもらうことは出来ない。ただ、毎日の仕事は待ってはくれないので、四苦八苦しながら仕事をしている日々だ。

 今日は皆忙しそうにしているため、誰かの足手纏いにはなるまいと、経費精算の書類を睨みつけていたら、頸にチリッとした視線を感じて、思わず顔を上げる。そうすると、フロアの入り口に一際大きな狼獣人が立っており、目が合った。

「……っ!」

 そこにいたのは、ガムラ・ヴィッセル指揮官だった。いつものように、襟のついた黒い隊服を来ている。僕は弾かれたように席を立ち、用を聞きに行く。

「ヴィ、ヴィッセル指揮官。何か御用でしょうか?」

「今日が経費の締め日だと聞いて、慌てて持ってきた。まだ間に合うか」

 ガムラ・ヴィッセル指揮官は、弱冠三十歳で、共同防衛省のトップに上り詰めたエリートだ。銀色に近い灰色の毛は艶々としている。声は低く穏やかで、聞いていてほっとするような響きがある。瞳は深い青色をしており、彼の穏やかで静謐な内面を表しているようだ。しっかりとした体躯を持つ狼獣人の中でもその体格の良さは折り紙付きで、毛皮の下にはしっかりとした筋肉に覆われているのだと思う。体術に優れており、指揮官ではあるが前線に出て戦闘することもあると聞く。彼に見つめられると、知らず知らずに顔が火照る。彼が素晴らしい燦然と輝く太陽だとしたら、僕はそこらへんには這いずり回る蜥蜴だ。干からびそうになりながら、彼を直視できずに吃りながら領収書を受け取る。

「は、はい。では、ぼ、私が受け取ります」

「ありがとう。ヒビキ」

「……っ!はい」

 受け取る瞬間、一瞬だけヴィッセルさんの手に触れてしまい、触れたところから熱が移る。そして、彼が省内の部下を名前で呼ぶことは知っていたが、一度しか話したことがない自分の名前まで覚えていてくれているとは思っても見なかった。その戸惑いから耳まで真っ赤になってしまっているのを自覚しながら、急いで踵を返して自分のデスクに戻る。ヴィッセル指揮官もフロアから出て行ってしまったようだ。太陽に触れてしまったことで心臓がバクバクと音を立てるが、それを無視して、机の上に積んである紙の山から目的のものを一枚抜き出す。そこには、今年上半期の経費精算の一覧が載っていた。それを睨みつけながら、動悸を鎮めるように仕事に集中し始めた。

 積み重なった書類を一つずつ処理していたら、あっという間に時間が経ってしまった。経費精算の締め日の後は、ただひたすら領収書や契約書を処理していかなければならない。経理部は毎年、この時期がとても忙しいのだ。僕は終わりの見えない仕事をいくつも抱えていて、今日は残業しなければならないようだ。現に時計は午後七時に差し掛かっている。

「ヒビキ。食堂いくぞ」

「ア、アカツキ……」

 肩を揉みながら仕事を続けようとする僕に声をかけてきたのはアカツキ・タマルだ。少し茶色い髪と分厚いフレームの眼鏡が印象的だ。彼は経理部の同僚で、僕の彼氏として周りに知られている。僕なんかが彼氏なんて作れるはずがないのだが、それはその通りで、アカツキとの関係は仮初のものだ。つまり、僕達は周りを欺いて交際していると言っている。

 なぜそんなややこしいことをしているのかというと、アカツキが重度の狼獣人嫌いだからだ。狼獣人は小さい人や物を可愛く思う特性があり、人間、特に日本人を可愛く愛しく思うと言われている。しかし、アカツキは生粋の狼獣人嫌いで、彼らの恋愛対象にされるのが死ぬほど嫌なのだそうだ。確かにアカツキは狼獣人には並ぶほどの高身長で百八十センチを超えており、僕とは十五センチも違う。また詳しく聞いたことはないが、異性愛者なのだと思うので、狼獣人の男性から好意を寄せられるのが嫌なのだろう。

 それである日、狼獣人からアプローチされないように、僕に対して身代わりの恋人になって欲しいと言ってきたのだ。

 狼獣人は本気で好きになった相手に一途であり、一度作ったパートナーは死ぬまで変えないため、恋人がいる人は絶対好きにならない。その習性を逆手に取って、アカツキは僕を隠れ蓑にしている。

 アカツキは僕より二年前に入省した先輩なので、現在五年目だ。大学を出ているので、今年二十七歳になるとこの前言っていた。彼は経理の専門知識を持っているため、僕の倍ほどの領収書を抱えていても小一時間あれば全て処理しきれるほど有能だ。けれど、気が強く、好き嫌いが態度に出てしまうため、敵も多い。そんなアカツキはつい半年まで僕の指導役だった。

 経理部に入ってから彼のお世話になりっぱなしで、少しでも恩返しができたらと思って、僕はこの関係を了承している。仮初の関係は既に一年ほど続いており、この関係が偽物だとばれないように、お互いの左手の薬指にお揃いの銀色の指輪もつけている。

「今日の日替わりは、トンカツ定食だってよ。早く行こうぜ」

「う、うん」

 僕が椅子を立ったのを見て、アカツキは満足そうに微笑んだ。アカツキは僕よりも先輩であるため、本来は敬語を使わなければならないし、彼のファミリーネームであるタマルさんと呼ぶべきなのだが、そんな他人行儀な話し方は恋人として不自然なので、アカツキから二人の時は敬語をなくすように言われている。以前は、その切り替えに戸惑っていた僕もようやく慣れてきたのが満足なようだ。

 そして、二人で経理部のフロアを出て、地下にある食堂へ向かう。食堂へ着くと、これから残業する人達で混んでいて、僕達はタイミングよく空いた一番奥の席に向かい合って座った。そして、僕はきつねうどんを頼み、アカツキはトンカツ定食を頼んだ。美味しいか美味しくないかで分けるとしたら、そのちょうど真ん中に位置しするきつねうどんを食べながら雑談をしていると、不意に思い出したかのようにアカツキが口を開いた。

「あ、そうだ。ヒビキに聞きたいことがあったんだけど、総務課の追加費用って処理してる?」

「う、うん。僕が担当だってさっき課長に言われたけど、どうかした?」

 アカツキの顔を見ようと思って顔を上げると、今日話したヴィッセル指揮官が、僕の位置から見える席でご飯を食べているのが見えた。僕は滅多に残業をしないためこの時間の食堂を利用したことがなく、ヴィッセル指揮官は食堂をよく利用しているのだろうかと思い、ふと彼の方を見つめてしまう。ヴィッセル指揮官は大盛のラーメンのようなものを食べており、大きな口でバクバクと食べる様子は見ていて気持ちがいいし、それでいて不快感がない。その食べっぷりに惚れ惚れしてしまい、よそ見をしていると、アカツキは勝手に話し出す。

「実はさ、あれって俺が直接総務課に行って作業するはずだったんだよ」

「そ、そうなの?」

 急に言われた言葉に驚いて、アカツキに目を向ける。先ほど課長から頼まれた仕事がややこしいものだったので、少しナーバスになっていたのだ。

「でも、ちょっと忙しくて行けなくてさ。悪いんだけど、総務課まで代わりに行ってきてくれないか?」

「わかった」

 元々アカツキがやるはずだった仕事であれば、難しくて処理が複雑なのも理解できた。アカツキは申し訳なさそうに聞いてくるが、今まで僕が彼から教わってきた時間と内容を考えれば大した問題ではない。そう思い、頷く。

「サンキュー。助かるわ」

 アカツキは、そんな僕の様子を見てニッコリと笑ってから、食事を再開した。僕はアカツキとの会話が途切れたので、再びヴィッセル指揮官の方を窺い見ると、先程まで空席だった彼の隣りには仲の良いバロン・ドルーガ副指揮官が座っていた。二人は談笑しながら、ご飯を食べている。

 ヴィッセル指揮官とドルーガ副指揮官は、ウルフワムの中でも同じ故郷の出身だそうだ。年齢は一才違いで、ウルフワムにある高等学校へも一緒に通っていたほど仲がいいと聞いたことがある。ドルーガ副指揮官の方が毛の色が黒っぽいが、毛の色が銀に近いヴィッセル指揮官と並ぶと、見目の良さも相まって、とてもしっくりくる。二人を見ていると、太陽が二つ並んだようで、蜥蜴の僕はじりじりと焼けこげそうになる。

「……なぁ、ヒビキ。大丈夫か」

「なにが……?」

「いつにも増して、ボーッとしてるから」

 アカツキは心配そうに僕の額に手を当ててくる。その家族のような振る舞いが嬉しくて、僕は下を向いてしまう。突然のことに少し頬が染まる気がした。

「あ、ごめん……。なんでもない」

「あー、なんか狼どもの気持ちが分かる気がする」

 アカツキは僕の様子を見て、何かに納得したようだ。しかし、その何かは分からず、思わず聞き返す。

「え? 」

「いや、こっちの話し。それで、話しは変わるけど、明日は俺の部屋来いよ。明後日は土曜日で休みだし、また映画見よう」

「う、うん」

 僕の問いには答えるつもりがないようでスルーされる代わりに、映画鑑賞に誘われた。僕とアカツキはしょっちゅう一緒に映画を見ている。そのきっかけは、アカツキの大の映画好きが高じて、臨場感が味わえる大きなテレビと特注品のスピーカーを購入したことから始まった。仮交際を始めた当初から見ているので、もう何十回と見ている。僕はある理由から、アカツキの誘いを了承することを一瞬だけ迷ったが、折角誘ってくれたのだから行かなければと思い返事をすると、彼は嬉しそうに笑った。アカツキは以前、一人で見ていてもつまらないと言っていたので、時間が空いている限り付き合いたいと思っている。

「よしっ!じゃあ、決まりな」

 言いたいことを全て言い終えたアカツキは、食べ終わった食器を持って立ち上がると、「先に戻るわ」と言い残して去っていった。その後ろ姿を見送ってから、僕も急いで食事を済ませようと箸を動かし始めた。そんな僕達の様子をヴィッセル指揮官が見つめていたのは知らずに。

 *

 共同防衛省の独身職員は、緊急事態に備えるため社宅に住まなければならない。その社宅は共同防衛省と同じ埋立地に建てられており、共同防衛省まで徒歩五分もかからない場所にある。経年により少し黄ばんだ白い建物で、独身者用なのでワンルームにキッチンとバスルームがついた狭い作りで、生活のための必要設備だけ揃えたというレベルだ。キッチンはかろうじて二口コンロがあるが、収納スペースが小さくて、早く出たいと思っている職員も多いと聞く。こればかりは規則なのでどうしようもないことで、役職者や既婚者になったら都内のマンションを借りることができる仕組みだ。僕とアカツキは第三棟の二階の部屋を割り当てられている。同じ部署だと近くの部屋に配置されることが多いと聞いたことがある。

 金曜日の仕事終わりにスーツからシャツとゆるいズボンに着替えて、ストックしてあるお菓子を持ってアカツキの部屋へ向かう。今日は金曜日なので、繁忙期の経理部といっても早めに帰る人も多く、僕は八時前に仕事を終えた。アカツキはもっと早めに仕事を切り上げていた。

 明日と明後日は土日ではあるが予定がないので、今日は少しくらい夜更かしをしても大丈夫だと思う。僕は人付き合いが下手で、同期やアカツキ以外の経理部員と話すことは滅多にない。話しかけられればそれなりに応対するのだが、自分から話しかけることが苦手だ。それに、僕がアカツキ以外の人と話すと、僕達の関係がばれるのではないかと危惧したアカツキがそれとなく割り込んできて、話しを終わらせてしまうのだ。だから、入省して二年経ってもアカツキ以外で親しくしている人はいない。

 休日は一人で本を読んでいることが多く、専らインドア派だ。しかし、アカツキと付き合い始めて、夜は映画を見ることが多くなり、この時間が唯一、他人と深くコミュニケーションをとる時間だといえる。ただ、これまで他人と密な関係を持ったことがないため、これが良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのかは分からない。

 そうやって取り止めのないことを考えながら、自分の部屋と全く同じ見た目の扉を開け、隣にあるアカツキの部屋に入ると、スウェットを着たアカツキがいた。

「お、来たな。呼びに行こうかと思ったたんだ」

「うん。お邪魔します。お菓子は持ってきたよ。アカツキが好きなピザ味」

「サンキュ。今日はどれ見る?」

「えー、と、アカツキに任せるよ」

 僕が言い淀んだ理由は、アカツキの好む映画ジャンルが偏っているからだ。

 アカツキは狼獣人を嫌っているせいか、この部屋で見る映画は狼獣人が虐げられる映画ばかりなのだ。血飛沫が上がることも多く、好みが分かれる作品ばかりだと思う。けれど、どんな映画がいいなんて僕に言う資格はないと思うので、自分からリクエストをしたことはない。そんな僕の様子を気にも止めずにアカツキは、嬉しそうにDVDを漁り始めた。そして、適当に選んだものをセットしてから、僕達はソファに並んで座った。

 そうして始まった映画は予想通り、和平条約を結ぶ頃の日本とウルフワムの対決を描いたものだった。日本人が狼獣人達に向かって、銃や爆弾を放つ様子が描かれている。

 僕は狼獣人に対して敵愾心を持ったことはなく、狼獣人が苦しむ様子を生々しく描いた映画を嬉々としていることはできずに、持ってきたお菓子をぽつりぽつりと摘みながら過ごしている。

 物語は中盤に差し掛かり、史実とは異なり、日本がウルフワムに打ち勝ち、ウルフワムの領土を占領するというかなり偏ったストーリーのような気がする。"気がする"というのは、不思議なことにアカツキが選んだ映画を見ていると、気が遠くなり、脳が酸欠になったように動きを止めるのだ。

 そして、あっという間に映画が終わっている。それなのに、狼獣人が無惨に人を殺すシーンや日本人が勝利するシーンだけは頭の中に鮮明に残っているのだ。映画を見終わった後に軽い頭痛と吐き気がするのもいつものことだ。そして、エンドロールが流れて、アカツキは満足したように大きく伸びをした瞬間、魔法が解けたかのように意識がはっきりする。

「あー、面白かった。やっぱり、俺、こういうのが好きだわ」

「そ、そっか……」

「どうかしたか?」

 僕は吐き気を感じながらも、それをお菓子と一緒に飲み込む。

「あ、いや、なんでもないよ」

「ふうん。ま、でも、野蛮な生き物に人間が酷使されるなんておかしいよな」

 アカツキは平然と、しかしどこか仄暗い目をしながら言う。野蛮な生き物とは狼獣人のことだろうか。そう思っても、それを聞いてしまえば後戻りできないところまで進んでしまうような気がして、尋ねることが出来ない。

「……アカツキ」

「いや、なんでもない。それじゃあ、メシにするか。カップ麺でいいよな」

「う、うん」

 結局、アカツキは僕の返事を聞かずに立ち上がってキッチンの方へ歩いていった。僕も立ち上がり、後を追う。そうすると、一緒に飲もうと思って買っておいた炭酸飲料を自分の部屋に忘れてきてしまったことに気がついた。

「ア、アカツキ。僕、飲み物を忘れてきたから持ってくるね」

「あ、おい」

 どうせ隣の部屋に行くだけなので、アカツキの返事も聞かずに部屋の外へ出る。そうすると、薄暗い共用部の廊下に、僕の部屋の隣の部屋に入ろうとしている人物がいるのが見えた。その部屋はずっと空室だったので、不思議に思って見つめると、そこにいたのは思いもよらない人だった。

「ヴィッセル指揮官……っ!どうしてこのフロアに?」

 思わず呟いた僕の声を聞いて、ヴィッセル指揮官が振り返る。仕事終わりで黒い隊服を着ているが、少し疲れているのか毛並みの艶が少しくすんでいる。そして、僕の姿を見ると、とても驚いた表情を見せた。確かに、ヴィッセル指揮官は独身者のため、この社宅にいてもおかしくはないのだが、そうなると最上階の部屋を割り当てられることになるだろうし、そもそも指揮官なので都内に別のマンションを借りているはずだ。

「ヒビキ?!……っくそ、バロンめ」

 ヴィッセル指揮官は驚いて僕の名を呼ぶものの、すぐに何かに思い至ったようで、ドルーガ副指揮官の名前を呼ぶ。そのことに軽い胸の痛みを覚えるが、その痛みを無視して、僕は尋ねた。

「ど、どうかされましたか?」

「いや、ヒビキはこの部屋の隣に住んでいるのか?」

「はい。入省してからずっとこの部屋です」

「そうか……」

「あ、あの、ヴィッセル指揮官はなぜここにいらっしゃるんですか?ここは若手のフロアです」

「俺が住んでいるマンションが改装することになって、その間の仮住まいだ。自分で探す暇がなくて、バロンに頼んでいたんだが、空いている部屋がここしかないと言われてな」

「そ、うですか……」

 この社宅が満室になるほど人気だとは知らなかったが、ヴィッセル指揮官が隣人になることが俄に信じられずに立ちすくんでいると、後ろからアカツキの声が聞こえた。

「ヒビキ、うちにコーラがあるぞ……って、ああ、指揮官じゃないですか」

「タマル」

 アカツキはヴィッセル指揮官を見るなり、少しだけ声のトーンを落とし、なぜか揶揄っているような言葉尻で話しかけた。これまでアカツキの振る舞いからすると、狼獣人に対してそういう態度をとることは不思議ではない。しかし、アカツキに話しかけられたヴィッセル指揮官もなぜか不機嫌そうな顔をしている。それに、アカツキのことはファミリーネームで呼ぶのだと気づく。二人からお互いに対する嫌悪感が透けて見え、間に挟まれた僕の背筋に冷や汗が垂れる。

「君達の部屋は隣同士なのか」

「そうですよ。恋人同士なのでとても助かってます」

 アカツキはどこか挑戦的に笑い、ヴィッセル指揮官は眉間に皺を寄せている。どこかピンとはった糸のような緊張感を感じる。その雰囲気の悪さに戸惑いながら、僕が口を開こうとすると、ヴィッセル指揮官の口元から、何かを威嚇するようなグルルッと言う不思議な音が聞こえたような気がする。ヴィッセル指揮官の方を見ると、パッと目を逸らされてしまった。

「……そうか。休みだからといって羽目を外しすぎないように」

「あ、はい」

 ヴィッセル指揮官は、指揮官らしく僕達を諌めてから自分の部屋に消えていった。アカツキはその後ろ姿を見つめている。その瞳に先ほどの仄暗い光が差したように見えて、僕はアカツキに声をかける。

「ア、アカツキ?」

「……ほら、コーラ。早く戻ろう」

「あ、うん」

 アカツキは僕の声を聞き、すぐさま剣呑な顔を引っ込めて、いつも通りの様子で僕の手を引っ張って、部屋に入った。僕は違和感を感じつつも、アカツキに従うことにした。

 僕の隣人になったヴィッセル指揮官は優しくて仕事ができる、僕の憧れの上司だ。僕は昔、ヴィッセル指揮官と会話をしたことがある。僕が共同防衛省に入ったばかりの頃、経理の仕事についていけず、残業することが多かった。入省したばかりの僕は課長から頼まれた仕事が終わらずに、夜遅くまでパソコンを睨みつけながら仕事をしていた。当時の上司だった課長は丁寧に教えてくれるのだが、経験が違いすぎて素人の僕には直ぐには理解できず、それでも課長と同じレベルの仕事をしようと思って、四苦八苦していたのだ。その日も、一人だけ残り、経費精算に格闘していた。課長は家族の誕生日だということで帰ってしまったし、先輩達はみんな忙しいから手伝ってもらうこともできなかった。

 ふと時計を見ると十時を過ぎており、そろそろ帰らなければならないと思うのに、手元の仕事は全く進んでいなかった。疲れというものは恐ろしく、人をネガティブにさせる。その日、僕は減らない仕事を見て、仕事に向いていないのかもと思ってしまい、なぜか絶望的な気持ちになってしまった。それでも誰かに相談することも出来ず、頭を冷やすために十分だけ休憩室で休むことにした。共同防衛省の休憩室にはいくつかの長椅子と自動販売機があり、そこで冷たい飲み物でも買って頭を整理しようと思ったのだ。

 休憩室の自動販売機で缶コーヒーを買って長椅子に座っていると、誰かが休憩室に入ってきたことに気がついた。顔を上げると、そこにはヴィッセル指揮官がいた。入省式の時に壇上で挨拶をしていたので顔は知っていたのだ。ものすごく偉い人が入ってきたことで僕は一気に緊張してしまう。けれど、なぜかヴィッセル指揮官も僕を見て目を見開いている。そして、彼は僕の方へ近づいてきた。狼獣人は上下関係に厳しいので、新人の僕から挨拶をした方がいいと思い、口を開く。

「えっと……、お疲れ様です」

「君は……」

 僕の側までやって来たヴィッセル指揮官の瞳孔が開いているような気がするが、きっと気のせいだろう。

「今年入省したヒビキ・ホンマです。……ここにいたら、邪魔ですよね。すみません。すぐ戻ります」

「いや、待ってくれ。部署はどこだ」

 ヴィッセル指揮官は戻ろうとした僕の手を掴みながら、更に言葉を続ける。僕は何かしでかしてしまったのかとおそるおそる回答する。

「えっ? えっと、経理部です……」

「私は総括指揮官のガムラ・ヴィッセルだ。少し話しをしていかないか。入ったばかりの子がこの時間まで残業している理由も気になるから」

「いえ、あの……、それは……」

 その言葉を聞いて僕は戸惑った。心配してくれているのは嬉しいが、こんなに偉い人に僕の悩みなんて話せるわけがない。それに、そもそも僕の悩みなんて、指揮官から見たらちっぽけなものだ。そんなことを考えているうちに、ヴィッセル指揮官は僕の隣に座る。

「遠慮しないでくれ」

 そう言って、ヴィッセル指揮官は微笑んだ。その瞳が真摯な光を映していて、僕はなぜかこの人になら悩みを打ち明けてもいいかもしれないと思えた。最初は緊張していたが、ヴィッセル指揮官の相槌がとても自然で、次第に緊張が解れて、仕事の悩みを打ち明けた。彼は少し考えてから「課長が指導役というのは駄目だな。二、三年上の先輩から教えてもらった方が効率がいいだろう。私の方から経理部長に言っておこう」と言った。

 僕は他人に話したことで自分の考えを整理できて、それだけで少し気分が明るくなっていたのだが、ヴィッセル指揮官が僕の悩みを否定せずにアドバイスをくれたことにも感動していた。僕達は取り止めもなく色々な話をした。仕事のことだけでなくプライベートなことも話し、彼も自分のことを教えてくれた。彼は僕よりも八つ年上であり、ウルフワム出身で特に体術が得意なことなどを教えてくれた。僕からも、本を読むのが好きなことや映画も詳しくないが興味があることなどを話した。僕達は気づけば一時間以上も話をしており、それに気がついたヴィッセル指揮官が苦笑して止めなければもっと話していたかもしれない。それほど心地の良い時間だった。その時間の終わりにヴィッセル指揮官はこう言った。

「ヒビキ、私にできることがあれば、いつでも連絡をくれ。君の力になりたいんだ」

 その言葉から、一介の新入職員をここまで気にかけてくれるヴィッセル指揮官の懐の深さに感じて、僕達は別れた。そして、ヴィッセル指揮官が掛け合ってくれたのか、課長から直接指導されることはなくなり、僕の指導役にアカツキがつくことになった。そしてアカツキが指導役になり半年が経った頃、カモフラージュで付き合ってほしいと言われて、今に至っている。

 アカツキの教え方はとても上手く、僕の経理スキルは少しマシになった。僕はそのおかげで、ヴィッセル指揮官と話した休憩室の夜から残業することが少なくなり、あの夜以来休憩室に行くことはなかった。当然、ヴィッセル指揮官と話す機会もなかった。

 そして、いつだったかは覚えていないが、ヴィッセル指揮官と目が合うと逸らされるということが続いて、僕は知らない間に彼に失礼なことをしてしまったのかもしれないと思い、僕から話しかけるなんて馬鹿げたことは考えなくなった。けれど、そのヴィッセル指揮官が隣に住んでいるのだと思ったら、なんとなく落ち着かない気持ちになった。

 けれど、彼は隣りの部屋に滅多に帰ってこないようだ。社宅の壁は薄いので、隣りの部屋の扉が開閉する音は結構響く。それなのに、ヴィッセル指揮官が住む部屋の扉の開閉音を聞いたのは、一月経っても数回ほどだった。それも僕が寝ようとする頃、ほとんど日付が変わるころに聞こえた。特に金曜日から日曜日にかけては、扉が開く音が一度もしなかったように思う。

 土日はアカツキも外出することが多く、僕は専ら家で本を読んでいる。両隣りの部屋から生活音が聞こえないので、僕の部屋は静寂に包まれている。

 ヴィッセル指揮官は仕事が忙しいのだとは思うが、もしかすると、隣の部屋にいない時は仲の良いドルーガ副指揮官の部屋に行っているのかもしれないと思うと、なぜか腹の底がチリチリと焼けるような心地がする。

 そして、ヴィッセル指揮官が隣に引っ越して来てからの一月の間に変わったことがもう一つある。それは、経理部の部長と課長が異動になり、狼獣人の部長と課長になったことだ。これまで経理部の管理職は日本人しかいなかったので、大きな変化だ。僕は狼獣人が上司であっても気にならないのだが、狼獣人に対して忌避感を持っているアカツキはことあるごとに部長や課長とぶつかっていた。

「タマル、その態度は何だ!」

「態度よりも仕事の内容で見てくださいよ。ミスはしてませんから」

 狼獣人は上下関係に厳しい人が多く、新しくやってきた課長もそのようだ。そんな彼に対して、アカツキは反抗的な態度を取っている。それを指導しようとする課長と言い争うのは日常茶飯事で、言い争う声というのは周りに悪い影響を与えるのか、経理部の雰囲気はどことなく荒んでしまっている。アカツキは何度も怒鳴られて、心底嫌そうな表情をしている。僕としては、これまでお世話になっているアカツキが課長から怒られるところは見たくない。どうすればいいのか悩む日々が続く中、課長が席を外している時に、アカツキが僕のもとへやって来た。少し目が血走っており、心配だ。

「ヒビキ!今日の仕事終わりに、俺の部屋まで来てくれないか?二人で話したいことがある」

「今日?うん、分かった……」

 アカツキは目を爛々と輝かせているものの、どこか正気を感じさせず、僕はざわつく胸の内を隠して頷いた。

 そして、仕事終わりにアカツキの部屋へ行った。部屋に入り、いつものソファに座った途端、アカツキは僕の肩をぐっと掴んで、興奮したように話しだした。

「ヒビキ。ヒビキは俺の味方?」

 アカツキから真剣な顔でそう聞かれて、最近やってきた課長とのトラブルのことを思い悩んでいるのだと思い、アカツキを擁護する。

「え?う、うん。アカツキの味方をしたいと思ってるよ」

「そうか……。じゃあ、お前なら分かってくれるよな。俺、いいや、俺達はようやくウルフワムの連中を駆逐する方法を見つけたんだ」

「え?」

「俺達の日本をウルフワムから取り返すんだ。ただ、そのためには、ヒビキの協力が必要なんだ」

「なに、言って……」

 アカツキは僕の小さな声など聞こえないかのように、熱に浮かされたような口調で続ける。その目は、いつか見た仄暗い光を移している。

「俺はウルフワム打倒連合軍の一員で、ウルフワムを倒すためにスパイとしてこの会社に潜入していたんだ。黙っていて悪かった。だけど、狼の奴ら、俺達を奴隷のようにこき使っておいて、自分達だけ良い暮らしをしてるなんて許せないだろう?」

「……っ!?」

 アカツキの言葉に衝撃を受け、僕は目を見開く。ウルフワム打倒連行軍は、日本がウルフワムに事実上支配されて以来、アンダーグラウンドな世界で活動を続けている、いわゆるテロ組織だ。まさかアカツキがウルフワム打倒連合軍からのスパイだったなんて、信じられない。けれど確かに、思い返してみれば、アカツキは妙に手際よく仕事をしていた。あれは慣れていたというより、あらかじめ訓練を受けていたからできたことだったのだろうか。アカツキは僕の動揺を意に介さず話し続ける。

「だから、ヴィッセル指揮官から国防に関する情報を奪い取って隙を見て狼野郎を駆逐する。日本人が日本のトップに立つんだ。それこそが国として正しいあり方だ。そうだろ?そのゴールがあるからこそ、こんな理不尽な差別とも戦える」

「ア、カツキはどうして、そんなことを?」

 いきなり告げられた衝撃の事実に声が掠れる。だが、僕はその衝撃に加えて、くらくらと眩暈がして気が多くなる。お酒を飲んだ時のように感覚が鈍く、若干呂律が怪しくなっている。僕の質問に対して、どこかアカツキはどこか悲しげに微笑むが、その問いに答えてくれることはなかった。

「……ヒビキ、頼む。俺に協力してくれないか。俺にはお前しかいないんだ」

 その真摯な表情に僕は思わず息を飲む。酩酊時のように判断する能力が落ちているが、彼の言葉は僕のどこかを満たしたような気がして胸の奥が震えた。それと同時に頭が鈍く痛む。必要とされなかった僕でも出来ることがあるのだと、そう思った瞬間、僕は夢現のままアカツキの言葉に頷いていた。

「……僕にできることなら」

「っ!ありがとう!ヒビキ」

 アカツキは満面の笑みを浮かべて僕を抱きしめる。その腕の中は暖かくて、なんだか泣きたい気持ちになってしまった。もし僕に兄がいたらこんな感じだったのだろうか。

 そして、眩暈がする中、不思議とよく通るアカツキの声で聞かされた作戦はこうだった。まず、僕がヴィッセル指揮官と親しくなって、彼のプライベートゾーンまで入り込む。そして、油断をさせたところで、機密情報を手に入れる。機密情報そのものを手に入れることが出来なくても、どのデータベースに保存されているのか程度を聞き出せれば十分ということだ。アカツキが欲しい情報は、まずは軍や軍兵器の配置図とそれが手薄になる時期とのことだ。他には、有事の際に共同防衛省の全ての活動を止める極秘パスワードがあるらしく、それが喉から手が出るほど欲しいということだった。ヴィッセル指揮官は共同防衛省の全てを指揮しているため、確かに彼ならばその情報を持っているだろう。けれど、僕とヴィッセル指揮官が親しくなることは不可能に近い。そう言うと、アカツキはこれまで見たことがないような軽薄な笑顔で僕を見た。

「いくらヴィッセル指揮官でも、セックスした後は無防備だろう」

「セ、セックスって、そんなの無理だよ……。僕にそんな魅力はないし、そもそも狼獣人はパートナーがいる人は絶対に好きにならないのは、アカツキも知ってるでしょう」

「いや、狼獣人が誰かのパートナーだと認識するのは、相手の匂いがついてからだと聞いたことがある。その匂いがいつ着くのか、人間の俺には分からないけど、ウルフワム打倒連合軍の研究者曰く、精子を何度か体内に取り込むと、相手の匂いが身体の奥に根付くんじゃないかと言ってたな」

「え……だったら」

「そう。俺とヒビキはセックスはしてないだろう。だから、ヒビキは、狼獣人どもにとって、彼氏がいるけど純潔は散らされてない美味そうなご馳走に見えるんじゃないか。現に、ヒビキを物欲しげに見る狼野郎共がどれだけいたことか」

「そんなこと、知らないよ」

 アカツキから訳が分からないことを聞かされて、頭がパニックになる。

「ヒビキは俺から見ても綺麗な顔してるよ。楚々とした可愛さって感じがする。俺は異性愛者だから、弟にしか見えないけど。それに、ヴィッセル指揮官はニ年くらい前までは来るもの拒まずで遊んでいたらしい。だから、セフレくらいにはなれるんじゃないか」

 弟と言われて、気持ちが湧き立つものの、その後に続いた言葉にはどう反応していいか分からずに、困惑していると、アカツキはぽつりと呟いた。

「……そうじゃないと、お前に話しかけた意味がない」

「え?」

 一言何かを呟いた瞬間、兄のように頼りがいのあるアカツキが急に知らない人になってしまったような気がして、寒くもないのに鳥肌が立ってしまった。思わず聞き返すと、「まあセックスまではしなくても、狼獣人の庇護欲を刺激して、泣いて悲しんで、同情を誘って油断させたらいいんじゃないか」と言われる。目を白黒させている僕を見て、アカツキは困ったように笑う。

「僕じゃだめですかとか言って、縋りついて泣け。それで、ヒビキを抱けると思ったら、案外簡単に機密情報を話すかもしれない。ただ、ヴィッセル指揮官の側には常に人がいるから、時間かけたりして、バレないように気をつけろよ」

「そ、そんなことありえない……痛っ……」

 アカツキは僕を見て笑う。その様子を見て、急に酷くなってきた頭痛に、僕は少しずつ思考を曇らせていった。

「方法は何でもいい。俺はお前を信じてるよ」

 アカツキはなぜか僕が逆らうことはないと思っているようだ。僕は、急に世界で一人ぼっちになってしまったような心許なさを感じた。

 *

 アカツキから衝撃的な話を聞いてから、僕は自分がどうすればいいのか分からないままだった。アカツキが僕を頼っている以上、何かしてあげたいと思うのだが、最近アカツキのことを考えると何故か思考が鈍くなる。そんな不調を振り払うかのように、僕はヴィッセル指揮官の様子を観察し始めた。

 観察を始めて気がついたことは、彼はとても多忙ということだ。彼の執務室には人が終始立ち替わり入れ替わりで入っており、休む暇はないように見える。彼が一人になる時間はかなり限られているようだ。

「アカツキが言う通り、本当に忙しいんだな……」

 小さく呟いて考えていると、経理部の脇の廊下で、ヴィッセル指揮官が部下らしき男性と話しながら書類を手渡している様子を見かけた。その男性は、黒い毛並みの美しい狼獣人だった。彼はヴィッセル指揮官に何かを話しているようだ。

「……では、この案件は来週の会議でお伝えします」

「あぁ、頼む」

 短く、それでもストレートに伝え、それを聞いた部下の男性は踵を返した。彼らの様子を見て、やはりヴィッセル指揮官は優れたリーダーであると感じる。狼獣人は上下関係に厳しいが、能力のない上司には絶対に従わないと聞いたことがある。彼は皆から認められているのだろう。

 また、食堂や休憩室に行くようにして、人の噂話からヴィッセル指揮官の近況を把握するようにした。本人のいない場所でも、ヴィッセル指揮官を悪く言う人はおらず、僕は感心してしまう。

 一方で、彼の恋人関係については疑問を持っている人が多いようだ。ウルフワムでは二十代でパートナー、日本でいう結婚相手を持つのが一般的であるのに、未だに独身であるため、親戚筋からひっきりなしに縁談が持ち込まれているようなのだが、全て断っているそうだ。また、二年前までは来るもの拒まずで関係を持っていたというがそれがぴたりと止んだらしい。そのことから、ヴィッセル指揮官には想い人がいて、叶わない恋をしているのではないかという憶測が立っていることも耳にした。

そして、ヴィッセル指揮官が片思いをしている相手とは、ちょうど二年前に共同防衛省に赴任したドールガ副指揮官ではないかと言われている。しかし、ドールガ副指揮官は既に日本人の男性とパートナーになってしまったそうだ。あんな格好良い人が叶わない恋なんてありえないと思ったけれど、時期的にピタリと合うことから、否定できない気がした。

 そんな周辺情報を少しずつ集めるも、ヴィッセル指揮官と直接話しをする時間もなく、途方に暮れていた。それにアカツキは最近仕事を休みがちで、社宅にもいないのでどうすればいいのか聞く機会がない。今思えば、アカツキは、金曜日の夜はよく映画鑑賞に誘ってくれたが、土日は不在にしていることが多かった。土日にウルフワム打倒連合軍の活動に参加していたのかもしれない。

 アカツキがウルフワム打倒連合軍に入っていたことを知ってから、僕は改めてウルフワム打倒連合軍について調べてみた。ウルフワム打倒連合軍は、日本がウルフワムに事実上支配された時から、アンダーグラウンドなテロ組織として活動しているようだ。過去には死者を出したテロ行為の首謀者として指名手配されている人物もいる。そして、連合軍に所属する人の多くは、狼獣人に否定的で差別意識があると聞いたことがある。

 アカツキがそんな危険な組織に所属していると分かった時点で、人事部か上司に相談するべきなのかもしれない。けれど、アカツキのことを他人に相談することを想像すると、急に頭痛がして耐えきれずにしゃがみ込んでしまい、立ち上がった時には相談しようという考えがどこかへいってしまうのだ。僕は突然の体調不良に戸惑いつつも、追い討ちをかけるようにアカツキからメールが届いた。

(ヒビキ、俺達はもう家族みたいなものだろう。ヴィッセルから機密情報を聞き出してくれ。俺はお前を信じてる)

 メールにはなぜか可愛い猫の画像ファイルが添付されており、クリックすると猫が動いた。画像ファイルが付いていた理由は分からなかったが、"家族"というキーワードを目にして、僕はようやく何か動かなければと思った。アカツキは僕を家族のように信頼してくれているのだから。

 そして、焦燥に駆られた僕が、息を潜めて、ヴィッセル指揮官側の部屋の扉の音を聞き漏らさないようにしていると、ガチャリと鍵が開いた音がした。この社宅は鍵の部分が重く、異様に大きな音がするのだ。それを聞いて、僕は不自然にならないように少し待ち、ワイシャツにスラックスという仕事終わりのような出立ちで隣の部屋の前に立つ。そして、震える手で社宅の安っぽいインターホンを鳴らした。そうすると、ピンポーンという機械的な音が途中で切れて、部屋の主がカメラ越しから僕のことを見ているのが分かる。僕はヴィッセル指揮官から話しかけられる前に自分から話し出す。

「ヴィッセル指揮官、すみません。ヒビキ・ホンマです。いらっしゃるようでしたら、いま少しお時間いただけないでしょうか」

「ヒビキ……?……少し待っていろ」

 そう言われた後、ガチャリと扉が開いて顔を出したのはヴィッセル指揮官だった。帰宅して間もないので、まだ隊服を着ているようだが、胸元は寛げているので、そこからふわりとした毛が見えて、なぜだかどきりと鼓動が跳ねた。

「あの、ヴィッセル指揮官、ご相談したいことがあります。ここでは話せないので、中に入ってもよろしいでしょうか……?」

「いきなりどうした。仕事のことか」

 ヴィッセル指揮官は玄関から退かずに僕を見つめている。

「い、いえ……」

 ヴィッセル指揮官が戸惑っているのが分かり、僕は内心焦る。確かに、これまでろくに話したことがない部下が突然家に来て、相談したいことがあるから中に入れてくれと言うなんておかしいと思うだろう。どう言えばいいのかまごついている僕を見て、ヴィッセル指揮官は目を細めて尋ねる。

「……タマルはどうした」

 いきなり聞かれたのはアカツキのことで、ここのところ頭を悩ませている存在を指摘されて思わず吃ってしまう。

「え?ア、アカツキ、は……あの……」

「……入りなさい」

 言い淀む僕を見て、何かを察したのかヴィッセル指揮官は僕を部屋の中へ迎え入れてくれる。

 ワンルームの部屋の中にはベッドとテレビといった最低限の家具と家電しかない。その中で使用した形跡があるのはベッドくらいで、この部屋にいる時間はとても少ないのだと言うことが分かる。それでも家族や仲間を大切にするというウルフワムらしく、テレビ台のところには家族写真が置いてあった。その中で微笑む幼いヴィッセル指揮官を見つけて、彼が大切に育てられてきたことが分かる。僕とは正反対の太陽のような人なのだ。

「ソファなんて洒落たものがなくて悪い。ベッドにでも座ってくれ。何か飲むか?」

「……いえ」

 僕は促されるままベッドの端っこに腰掛ける。アカツキ以外の誰かの家にこんな風に上がること自体が初めてで緊張してしまう。しかも、相手はヴィッセル指揮官だ。いつもとは違う状況に心臓が激しく脈打つ。それを落ち着けようと深呼吸を繰り返すと、ヴィッセル指揮官なぜか少しだけ苦笑いをしながら話しかけてくる。

「君とこんな風に話すのは休憩室で出会った時以来だな」

 そう言われて、休憩室で会話したことを覚えていたのは僕だけではなかったのだと驚くと同時に歓喜する。ヴィッセル指揮官がそんな顔をする理由は分からないけれど。

「それで、こんな時間にどうしたんだ?タマルが心配するだろう」

「え、っと、あの……」

 その喜びや戸惑いよりも、今ヴィッセル指揮官に対してどう答えればいいのか思い悩んで言い淀む。ヴィッセル指揮官に対してだけでなく、僕自身がどうすればいいのか、ここのところ考えるのはそればかりだ。謎の体調不良と相まって、答えのないその問いに悩んでいることが辛くなり、ぽろりと涙が出てきてしまった。けれど、僕がこの人を謀るのは決まっているのだ。このことがバレたら、このあたたくて素晴らしい人からは確実に嫌われるだろう。僕が決めたことなのに、行き場のない思いが胸の中から溢れてしまう。

「っすみません」

 それを見て、ヴィッセル指揮官はそれを見て、ヴィッセル指揮官は驚いた顔をして慌てている。

「ど、どうした。どこか痛いのか」

「ち、違います……。あ、あれ……すみません」

 自分でもどうして泣いているのか分からず、涙を止めようとするのだが止まらない。ヴィッセル指揮官はそんな僕の隣に腰掛け、僕の背中を撫でてくれる。彼の手は大きくて、撫でられるだけで安心できるような力強さを感じる。

「何があったんだ」

「す、すみません……。僕、彼の気持ちが分からなくて……」

「ああ……」

 ヴィッセル指揮官は何故か少し辛そうに、僕の言葉を遮らずに聞いてくれる。辛そうな表情の理由は分からないが、話を聞いてくれようとするその姿勢に僕は言いようのない安心感を感じる

「頭の中がぐちゃぐちゃで……。僕、どうしたらいいのか……」

 言葉には出来ないが、アカツキがウルフワム打倒連合軍に入っていること、そしてそのアカツキからスパイ活動をするように言われていること、アカツキの言葉に抗えない自分、そんな目まぐるしい変化を頭の中でまとめきれずに、つい本音が出てしまう。

「……タマルが浮気でもしたのか?」

 そんな僕の様子を見て、ヴィッセル指揮官が意を決したように口を開く。想定外のことを言われて、一瞬涙が止まる。その様子を見て、ヴィッセル指揮官はそれが当たっていたと思ったようで、牙を出し、苦々しい顔をする。

「パートナーがいながら浮気など許せん。しかも、ヒビキのようなパートナーがいながら」

 ヴィッセル指揮官は、僕を案じて怒ってくれていることが伝わってきた。

「あの……」

「どうした?」

「……あの時の言葉はまだ有効ですか」

 その様子を見て、僕は自分の胸の内を整理できずに、ただ言葉だけが口からこぼれ落ちる。ヴィッセル指揮官が休憩室で言ってくれた、「力になりたいんだ」というあたたかな言葉が胸の奥にずっと残っていたのだ。

 その時、アカツキの家族という言葉とヴィッセル指揮官に対するが憧れや思慕が、僕の中で一気に膨れ上がり、僕は、横に座るヴィッセル指揮官の胸にすがりついた。

「何を……っ!」

 ヴィッセル指揮官は驚いたようだが、僕を突き放すことはなかった。僕の腕を包むように掴んでいるが、そこに拒絶は感じなかった。

 僕はヴィッセル指揮官の広い胸で息をつく。その瞬間、ヴィッセル指揮官の匂いがした。お日様の下で干した洗濯物のようなあたたかな匂いで、僕はこんな状況なのになぜかほっとした気持ちになった。

 ヴィッセル指揮官の胸に飛び込んだのは、アカツキの指示通りに行動したのか、自発的に救いを求めたのか自分でも分からない。上を向くと僕を見下ろすヴィッセル指揮官の静かな湖のように青く澄んだ瞳があった。その瞳が大きく見開いたのを見つめて、震える声で伝える。

「……っヒビキ?! 」

「僕っ、ぼく、寂しくてっ……」

「何を言って……」

「僕、じゃだめですか?」

 必死にアカツキから言われた言葉を繰り返す。カタカタと手が震えるのが分かる。ヴィッセル指揮官は、グッと目を見開いた。思わず縋りついた胸がびくりと震えたのが伝わる。彼の部下を思う純粋な気持ちを踏み躙るような真似をしていることは理解している。アカツキの顔とヴィッセル指揮官の顔が交互に浮かんでは消える。

「……っやめなさい。ヒビキは混乱しているだけだ。身体を安売りするような真似はするな。……私でよければ話を聞くから」

「……で、でも」

 身体を安売りするとはよく分からないが、アカツキから指示があったのはここまでだ。断られた時になんて言おうかなんて考えておらず、頭の中でぐるぐると言葉が浮かんでは消えていく。その中でぽろりと漏れた言葉は、僕の本音だった。

「あの時、力になるって言ってくれて、とても嬉しかったんです……」

「それは……」

「僕、寂しくて……だから」

 僕はヴィッセル指揮官の胸から離れ、脇にある彼の手両手をぎゅっと握りしめる。僕の口からは繰り返し寂しいという言葉が出てくる。これは誰の言葉だろう。アカツキはこんなことを言えと指示はしなかったのに。僕は、自分が自分でなくなってしまったような心地がした。

 その言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は観念したように息を吐きながら唸る。手を振り解かれることはなかった。その短くも長い時間の後、ヴィッセル指揮官は僕の目を見て言った。

「……君達の関係がどうなっているのか分からないが、ヒビキが望むのなら、俺が側にいよう」

「……ほんと、ですか」

「ただし、タマルとの仲が戻るまでだ。それでもいいか」

「……はい」

 泣き止まない僕をどう思っているのか分からないが、ヴィッセル指揮官の言葉は僕を突き放すことなく、手を握り返してくれた。僕はそのことが嬉しくて、ヴィッセル指揮官の手を握りながら、しばらくそのままでいた。僕の薬指にある指輪が鈍く輝いたのは見ないふりをして。

 *

 あの後、ヴィッセル指揮官は、僕が泣き止むまでずっと待っていてくれた。そして、僕が落ち着くと僕から身体を離して、「今日はもう戻りなさい」と言った。その上で、「関係を続けるのであれば、一週間後の夜にまたこの部屋に来るように」と言われた。そうやって選択肢を残してくれるのは、僕が錯乱して言ったことだと思っているからだろう。

 ヴィッセル指揮官に泣きついた時、僕は咄嗟に寂しいと言ってしまった。けれど、あの言葉は僕の本音だ。僕は幼い頃からずっと、纏わりつく寂しさに悩んでいる。僕の寂しさの根源は分かっていても、僕が親に捨てられた子供だからだ。僕の親は、僕を産んですぐ育児放棄をしたらしい。"らしい"というのは、親と一緒にいた記憶がないほど小さな赤ん坊の時に捨てられたからだ。それから、僕はずっと国の施設で育った。

 ウルフワムに支配される前の日本は家族の絆は緩く、成人したら一人暮らしをし、児童養護施設も複数存在したと聞いたことがある。けれど、僕が生まれた頃には、家族を大切にするというウルフワムの文化が日本には根付いていた。ウルフワムの人々からすると、子供を捨てるなんてありえないことで、そんな非常識な親から生まれた子供なんて不幸だと周りの大人は口を揃えて言った。

 現に、僕がいた身寄りのない子供達を保護する施設は全国に一つしかなく、そこにいた子供は二十人程度だった。しかも僕以外の子は、親が死別してしまい、親戚もいないために泣く泣く施設にやってきていた子達で、親に捨てられるというあり得ない出来事によって施設にやって来た僕は、疫病神のような縁起の良くないものだと見られることが多かった。

 そんな環境で育ったために、僕は小さい頃から、世界でたった一人の不幸な人間なのだと思い込んでいた。僕は自分が幸せだと思ったことがないし、価値のある存在だとも思えない。だって、無条件の愛を注いでくれるはずの親にすら捨てられたのだから。いつも心にぽっかり穴が空いたような虚無感を抱えて、少しでも人に求められると嬉しくなって頑張ってしまうようになった。僕は人に頼られていると思うと、拒否できない。頼られていることで自分を必要としているのだと思ってしまうからだ。それがどんなに僕を蔑ろにしたものであっても、出来ることがあるならしたい。そうじゃないと捨てられてしまうから。ただ、暗くて人見知りする性格と親がいないという育ちのせいで、僕を頼る奇特な友達も出来なかったし、施設の先生にもあまり好かれていなかったと思うけれど。

 僕は自分に家族がいないことが、成長した今でも寂しくて仕方がないのだ。だから、アカツキが僕を家族のように思ってくれていると知って、その期待に応えたいと思ってしまう。

 そのアカツキに、ヴィッセル指揮官との間で起きたことことを話した方がいいのだろうかと考えながら出勤したところ、狼獣人の課長から「タマルは長期休暇を取る」と言われた。少し前に繁忙期が終わり、今は経理部の仕事は少ない。夏に入る少し手前なので、この時期に夏休みとしてまとめて休みを取る人も多い。課長もアカツキがいないと楽なのか、少し嬉しそうにしているように見える。長期休暇はいつまでか分からないが、確かアカツキの有給休暇は僕の同じく沢山残っているはずので、一ヶ月ほどは休むのかもしれない。何も聞いていなかったので少し驚いたけれど、もしかしたらウルフワム打倒連合軍の活動が入った可能性もある。メールをすべきだろうかと思ったけれど、なんだか気が進まずにいたらあっという間に日が経ってしまい、一週間後の金曜日になった。

 僕は少し罪悪感とヴィッセル指揮官とまた話せるという期待で、どことなくそわそわしている。いきなり部屋へ行っても大丈夫だろうか。何時頃行くのがいいのだろうか。もしかしてヴィッセル指揮官の方が嫌になって心変わりしてしまったらどうしよう。そんなことを考えながら、仕事用のデスクトップパソコンの画面を見つめていると職場用のチャットアカウントにメッセージが入った。このチャットアカウントには全職員分の連絡先が入っており、他部署の人とも気軽に連絡が取れるツールなのだが、アカツキ以外の人と話さない僕にチャットをくれる人はおらず、なんだろうと訝しむ。そして、そのチャットの内容を見て声をあげそうになってしまった。

(夜八時には部屋に戻る。俺の部屋に来るなら晩ご飯を一緒に食べよう)

 チャットをくれたのはヴィッセル指揮官だった。そこには部屋に行く時間が書かれており、僕がその時間に行ってもいいのだと理解できた。

(分かりました。八時に伺います。晩ご飯は何か買っていけばいいですか)

(いや、手ぶらで来てくれ)

 返事をすると、すぐに返信をくれる。僕はこういう風に誰かと帰る時間の連絡や晩ご飯の相談をしたことがなく、なんだか心のどこかがくすぐったくなり、こんな気持ちになるのは初めてだった。恥ずかしくなってきた。

心のどこかがふわふわとしてこんな気持ちになるのは初めてだった。

 

 *

 

「お邪魔します」

「……ああ」

 そして、僕は仕事を定時きっちりに終わらせると、急いで部屋に戻り、身なりを整えることにした。どういう服装で行けばいいのか悩んでいたら、あっという間に夜の八時になってしまい、慌ててヴィッセル指揮官の部屋を訪れた。服装は悩みに悩んだ結果、大きめの白いTシャツ黒のジーンズにした。インターホンを押すとしばらく経って扉が空いた。ヴィッセル指揮官はなぜか、僕を見て少し安堵したように見えた。そして、この前とは違い、すんなり僕を迎え入れてくれた。

 ヴィッセル指揮官はいつもの隊服を脱いで、黒のシャツとズボンを履いている。袖からは毛皮に覆われた太い腕が見えており、その僕にはない男らしさにどきりと胸が跳ねる。そんな格好良いヴィッセル指揮官は、僕が部屋へ入るなり、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「家で人と会う時に何をすればいいのか分からなくてな。とりあえず今日は一緒にご飯を作ってから映画でも見るのはどうだ」

「えっ」

 ヴィッセル指揮官の言葉に僕は二つの意味で驚く。一つはヴィッセル指揮官とご飯を作るとは想像もしておらず、コンビニ弁当でも買いに行くと思っていたのだ。もう一つは、ヴィッセル指揮官は少し前まで相手に困らないほど人気があったと聞いているのに、こういうことは慣れていないのだろうかとびっくりした。驚く僕を見てヴィッセル指揮官が口を開く。

「嫌か?」

「いえ……嬉しいです」

 けれど、彼と話しをして一緒に時間を過ごせるだけでもとても嬉しく、そのことを素直に伝える。僕の言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は嬉しそうな顔で笑った。そして「来てくれ」と言って歩き出した。着いた先は部屋の隅にある、小さな一人暮らし用のキッチンだ。僕の部屋にも同じものがある。流しは狭いがコンロは二口あるのだ。そして、そこには人参やじゃがいもなどの見覚えのある野菜が置かれていた。また、以前はベッドとテレビ台しかなかった部屋に、ローテーブルと小さなソファが増えていた。

「俺の作るカレーは家族から評判が良くてな。一緒に作ろう」

「は、はい。頑張ります」

 ヴィッセル指揮官が料理も出来るとは知らなかった。家族からの評判がいいということは一度や二度ではなく作っているのだろう。それに対して、僕は料理と言えるほどの料理を作れる腕前はなく、切って炒めるだけの料理しかできない。冷凍うどんをチンして麺つゆをかけて食べるだけの時もある。彼の足手まといにならないようにしなければと思うものの、手際よく包丁で人参の皮を剥くヴィッセル指揮官の姿は格好良くて見惚れてしまう。意外だけれど、少しも彼の魅力を損ねていないのだ。

「料理、されるんですね」

「たまにはな。普段は外食ばかりだが。ヒビキはどうだ」

「僕は本当に簡単なものを作って食べることが多いです。それかお弁当を買ってきて食べています。ヴィッセル指揮官みたいに料理が上手く出来ないので」

 僕の言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は苦笑いをして僕を嗜める。

「ヒビキ。今は肩書きで呼ぶのはやめてくれ。部下にカレーの作り方を教える野外訓練を思い出す」

「あ……」

 ヴィッセル指揮官の言葉はもっともだけど、僕はヴィッセル指揮官と親しくなる心の準備ができておらず、戸惑ってしまう。

「俺の名前を知らないのか」

 そんな僕の様子を見て、少し悲しげにされてしまい、慌てて否定する。

「そんなわけないです……!ガ、ガムラさん」

 そうすると、僕の反応が予想通りだったのか、ガムラさんは悲しげな顔は直ぐに消し去り、満足げに笑う。ふさふさの尻尾がゆらゆらと揺れており、かっこいいのに可愛くもあり、ドキドキしてしまう。

「今はそれでいいが、二人でいる時は敬語もなくていいんだぞ」

「えっ……?は、はい」

 そう言ってガムラさんはじゃがいもの皮を剥いていく。僕もお手伝いをしようとしたけど、じゃがいもの皮剥きというのは予想以上に難しいことが分かった。ガムラさんは、五ミリくらいある皮を量産する僕を見て、最初は驚いた顔をしていたけれど、直ぐにコツを教えてくれた。そうしているうちに、僕の包丁を使う手つきが危なげだったことを除いて、無事にカレーの下準備を終えることが出来た。今日はズッキーニやアスパラ、パプリカなども入れた夏野菜カレーだ。

「ヒビキはどんな料理が好きなんだ?」

「何でも食べます。ただ、唐辛子の辛さはどうしても苦手で」

「唐辛子は俺も苦手だ。鼻が効かなくなるからな」

 二人で取り止めのないことを話しながら調理をしているとあっという間に時間が過ぎていった。出来上がったカレーを皿に盛り付けて、ローテーブルに向かい合わせで座る。色とりどりの野菜達がとても美味しそうだ。

「「いただきます」」

 僕とガムラさんは同時に「いただきます」をしたので被ってしまったが、そんな些細なことも楽しく感じられる。

「ウルフワムの郷土料理は大体が大皿料理で、家族みんなで分け合って食べることが多いな。だから、割合を考えずに食べる奴はウルフワムでは嫌われる。気をつけろよ」

「っふ、あはは」

 そんなことを真面目な顔で言うガムラさんの様子が面白くて、つい吹き出してしまった。それを見たガムラさんは怒ることなく、笑ってくれる。穏やかな時間が嬉しくて、楽しくて、幸せだと思った。

 食事を終えて二人で食器を片付けた後は、新しく増えた小さなソファに座って映画を見ることになった。そのソファは、僕とヴィッセル指揮官が隣り合って座るとお互いの肩がピタリとくっつくほど小さい。このサイズだとヴィッセル指揮官だけで座ってもゆとりがあるとは言えないかもしれない。サイズが変だなと思っていると、ガムラさんがそれに気付いたのか口を開く。

ガムラさんが言うには、ドールガー副指揮官にソファを頼んだらこんなに小さいものが届いたと言う。ドルーガー副指揮官は、ガムラさんと同様にこれまでにないほど優秀だと言われている。それほどまでに有能な人がどうして、と不思議に思っていると、僕の考えていることが伝わったのか、ガムラさんはなぜか気まずそうにしていた。

 理由を聞けないうちに、ガムラさんは映像プレイヤーをセットし始めた。その映像プレイヤーは日本で販売しているものとは少し異なり、とても小さい。どこにディスクを入れるのだろうと思っていると、プレイヤから一筋の光が出てきて、その光が一瞬ガムラさんの瞳に吸い込まれたかと思うと、テレビ画面に映画のオープニングが映し出された。

「え……?」

「ああ。日本人には馴染みがないかもしれないな。ウルフワムでは瞳の虹彩にデータを入れて、それを瞬時に取り出せる技術がある。このプレイヤーはその技術を使ったものだ」

 僕にそんなことを教えてくれる友人がいなかったからかもしれないが、そんな技術があるなんて初めて知った。

「そんなことが出来るんですか。瞳にデータを入れるなんて、痛くはないですか」

「痛くはない。人間もそうだが、何かを思い浮かべる時、瞳の中というのは微細な動きをする。その動きと設定したデータが連動して、プレイヤーに映し出される仕組みだ。入れられるデータは無限で、セキュリティも万全だから、俺はよく使っているな」

 ガムラさんがそこまで言った時点で、オープニングが終わり、僕達は映画に集中し始めた。

 テレビ画面に映るのは、大きなドラゴンに立ち向かう騎士たちの姿だ。勇ましい音楽が流れてくる。仲間達を集めて、巨大な敵に立ち向かっていく姿は、ファンタジー映画のようでアクション映画のようでもある。アカツキの部屋では、ウルフワムと人間が対立する映画ばかり見ていたのでなんだか新鮮だ。

「この映画、とても面白いですね」

「ああ、人気があるようだ。何度もリメイクされているらしい」

 映画は中盤に差し掛かり、主人公の男が仲間たちと共に強大な敵に挑んでいく場面になった。僕もヴィッセル指揮官と一緒に手に汗握りながら見ている。主人公が剣を振るうと、画面が光ってすごい迫力だ。

「わあ、かっこいい……!」

「そうだな」

「はい…………え?」

 耳元で聞こえた声に、僕は驚いて横を見ると、ガムラさんの顔がすぐ近くにあって、僕の心臓がどきりと跳ねた。ガムラさんも自分の顔が近いことに気づいたようで、恥ずかしそうにしている。

「すまない。つい夢中になってしまってな」

「いえ……」

 僕の頬には熱が集まり、きっと赤く染まっているだろうと思う。ガムラさんの耳はピクピクと動いている。もしかして照れているのだろうか。それからお互いに無言で、僕は映画を見るのに集中しているように見せかけるのに一生懸命だった。しばらくしてちらりと横を伺うと、こちらを見つめていたガムラさんと目が合ってしまい、ピクリと身体を揺らす。ガムラさんの目には熱が籠っているように見える。

 ガムラさんは、僕が身体を震わせたのを見て、少しずつ顔を近づけてきた。(あれ…? こ、これってキスされる…?)そう思い、僕は顔を背けることもできたのに、ゆっくりと近づいてくるガムラさんの唇を目を閉じて受け止めた。かさついたそれは触れてすぐ離れていった。僕に深い衝動を残して。

「ん……」

 僕は初めてのキスの衝撃から、少し声を漏らしてしまった。顔は真っ赤になっていると思う。だって、誰かとキスをするのは初めてだし、その相手があのガムラさんなのだから。何て言えばいいのか分からずに、ガムラさんを見つめていると、挙動不審な僕を見て、ガムラさんは少しだけ悲しそうな顔をした。心なしか尻尾も萎んでいる。

「どうした……?狼獣人とのキスは気持ち悪かったか?」

「えっ……?ぜ、全然、そんなことはないですっ!」

 予想外のことを言われて、慌てて否定する。ガムラさんの悲しそうな姿は見たくない。その一心で真実を打ち明ける。

「僕、誰かとキスするのは初めてで……」

 僕は必死に伝えると、ガムラさんは訝しげな声を出す。

「初めて?タマルはどうした」

「あっ……! そ、それは、アカツキはキスが嫌いで、あの、その」

 うっかり本当のことを漏らしてしまった僕はしどろもどろになりながら、言い訳を探す。それと同時に、僕はガムラさんを騙すためにこの場にいることを思い出してしまい、胸が痛くなった。ガムラさんはそんな僕を見て、何かを考えている様子をしたのだが、慌てふためく僕がそれに気づくことはなかった。

 急に顔を曇らせた僕を見て、ガムラさんは何を思ったのか、柔らかで、けれどどこか僕を縛り付けるように、僕に問いかける。

「……ヒビキは俺にどういう関係を望んでいるんだ」

「えっ……」

 ガムラさんは真剣な眼差しで僕を見つめる。そういえば僕達の関係は何なのだろう。アカツキはセックスの相手になるように言っていたけれど、こんな素晴らしい人が僕を抱いてくれるとは思えない。

「あの時は混乱していたようだったが、俺はてっきりアカツキが浮気している間の寂しさを紛らわせたいのだと思っていた」

「そ、それは」

 なんて返せばいいのか分からず、僕は言い淀む。焦りで目の奥から涙が出てきてしまう。セックスフレンド、一夜の恋人、身体だけの関係など頭の中でぐるぐると言葉が回る。そんなことをガムラさんとするというありえないことを考えるだけでくらりと眩暈がする。アカツキからも関係性までは指示されていない。

 そうやって焦る僕の口から出てきたのは、紛れもない本心だった。

「その、僕、は、ガムラさんの側に居たいだけです……」

「っ……! この小悪魔め」

 ガムラさんは小さく息を呑み、何かを呟いたが聞こえなかった。ただ、瞳の瞳孔が小さくなり、獲物を見つけた時のような鈍い光を放っている。僕はなぜかぞくりと背筋が粟立つ。

「っ……」

 僕は何か間違えてしまったかと思い、聞き返す。しかし、ガムラさんがふっと息を吐いた途端、その光は霧散してしまった。

「……分かった。浮気相手のくせに聞きすぎたな。次はヒビキの部屋へ行ってもいいか?」

「えっ……あの、はい」

 ガムラさんが浮気相手なんて畏れ多い。彼はただ、縋り付いてきた部下を放っておけないだけということは分かっている。今は何を言っても間違えてしまいそうで、ただ頷くことしかできない。

 僕の返事を聞いて、ガムラさんはほっとしたような表情を見せた後、「またチャットを入れる」と言ってくれた。隣の部屋だと言うのに、僕が部屋に入るのを見届けようと、僕に着いてきて部屋の外まで来てくれた。

「しっかり寝て、身体を休めるように」

 その言葉が上司のようで僕は思わず笑ってしまう。

「ふ、ふふ。はい。ありがとうございました」

 僕が笑う様子を見て、ガムラさんは不思議そうにしていたが、最後は微笑んだ。その笑顔を見て、僕の心臓がどくりと跳ねる。

「こちらこそ」

 ガムラさんは僕が扉を閉める間際に、僕の頬を優しく撫でて、隣の部屋へ戻っていった。別れ際に交わした言葉は短かったけれど、僕の胸には不思議な余韻が残った。

 *

 あの後、僕は風呂に入って、仕事に備えて眠りについた。そして、次の日になり、経理部のフロアに行くとざわざわとしており、何か良からぬ事件が起きてしまったのだと気がついた。

 その事件とは、ウルフワム打倒連合軍のメンバーである青年達が、民間の狼獣人に暴行を加えたというものだった。一人の狼獣人に対し、複数の日本人で殴る蹴るをしたようで、被害者の狼獣人は意識不明の重体で入院したということだ。加害者の青年達は逃亡を続けており、まだ捕まっていない。その事件と同時発生的に似たような事件が全国で十件近く起こり、共同防衛省では狼獣人と日本人との間に緊張感が走っている。この一連の事件は、仲間意識の強い狼獣人にとって許しがたいものであるのは確かだ。現に、共同防衛省の実務部隊は、犯人を探しだそうと連日に渡り警備やパトロールをする計画が立てられた。その指揮をしているガムラさんも忙しいようで、その事件からしばらく経っても隣の部屋の扉が開く音は聞こえなかった。

「お、おい!なんだこれ」

 そんな中、更なる事件が起こった。共同防衛省のデータシステムを攻撃するスパイウイルスが入り込んだのだ。今朝出社して、パソコンの電源をつけたところ、エラーメッセージが表示されていて、すぐさま館内放送でパソコンに触れないようにというアナウンスがあった。国家の機密事項が保存されているデータシステムは最高レベルのセキュリティで守られているため、データを盗まれることはなかったようだが、職員全員のパソコンが使えなくなった。パソコンが使えなくては仕事も進まないため、僕は経理部のフロアで手持ち無沙汰にしていた時、滅多に話したことがない経理部の部長が僕の名前を呼んだ。

「ホンマくん。来てくれ」

「え……は、はい」

 いきなり呼ばれて戸惑いながらも、部長の後をついて行くと、そこは幹部達しか使えない役員会議室だった。

「僕は連れてくるように言われただけだから、ここで待っている。中に入ってくれ」

 部長にそう言われて、目を白黒させながら中に入ると、そこには円卓があり、僕が立つ反対側の席にドルーガ副指揮官が座っている。状況が理解できていない僕に、ドルーガ副指揮官が「座って」と促し、僕は弾かれたように目の前の席に腰掛ける。ドルーガ副指揮官はその様子を見てから、おもむろに口を開いた。

「ヒビキ・ホンマ君、単刀直入に言うけど、君のパソコンからスパイウイルスが拡散されたみたいでね」

「え……?」

 ドルーガ副指揮官から聞かされた言葉が衝撃的で一瞬言葉に詰まってしまった。けれど、僕は思い当たる節もないので、パニックになりながらも否定する。

「ぼ、僕のせいなんですか?でも、僕はそんなこと……」

「落ち着いて。君が犯人だとは言っていないよ。最近、不審なメールは届いていないかな」

「不審なメール、ですか……?」

 不審なメールと言うが、僕は経理部なので、大体のメールの送り主は共同防衛省の内部の人だ。記憶を思い返すが、その中で怪しいものなどなかったと思う。いきなり言われた衝撃で動揺してしまい、微かに言葉尻が震えてしまう。僕は共同防衛省を危険に晒すような重大なミスをしてしまったのかもしれない。そう思うと、自分が重犯罪人のような心地がしてきてしまい、鼓動が早くなり、汗が吹き出てくる。

「特に覚えはないです……すみません」

 本当に思い当たることがないため、何も言えずにいると、ドルーガ副指揮官は僕を見定めるように目を眇める。その様子に不安になり、僕は自分の体を抱きしめる。すると、ドルーガ副指揮官は優しく微笑んだ。

「怖がらないで。念のため確認しているだけだから。無差別で攻撃するスパイウイルスもあるから、たまたま君のパソコンから入り込んだだけの可能性の方が高いよ」

 その時点で、会議室の扉が開いて、ヴィッセル指揮官が焦った様子で入ってきた。

「ヒビキ!」

「ガ、ヴィッセル指揮官!」

 僕は驚いて後ろを振り向くと、ガムラさんは僕を安心させるように背中に手を当ててくれた。そして、ドルーガ副指揮官に向かって激昂する。

「バロン。俺抜きでこの件を進めるなと言っただろう!」

「公私混同しそうな奴は最初から省く。当たり前だろうが」

「何だとっ?!」

「ただ、その子は白だと思うよ。嘘をついていたら、発汗や動悸は抑えられるからね。他の狼獣人よりも優秀な僕の鼻と耳は、その子は嘘をついてないと言ってる」

「……」

 ドルーガ副指揮官の言葉を聞いて、この人の前では嘘すらつけないのかと驚く。一方、ガムラさんはその言葉を聞いて、真剣な眼差しで僕を見る。

「ヒビキ、何かあったら俺を頼れ。これは上司としてでもあるし、一人の男としてもそう思っている」

 ガムラさんは僕をまっすぐ見て、真剣な様子でそう言った。その様子から、ガムラさんは本気で僕を心配してくれていることが分かる。こんな時でも僕を信じてくれることに胸が一杯になる。

「ありがとうございます……」

「あー、いま仕事中なんですけど。こほん。それで、君のパソコンとデータベースのセキュリティを強化することにしたから、その間は代わりのパソコンを使ってね。少し不便かもしれないけれど、経理部の部長にもそのことは伝えておくよ」

「分かりました」

 ドルーガ副指揮官はガムラさんに胡乱げな視線を向けてから、部屋の外にいた部長を呼んで、指示を出した。その後、僕だけ経理部のフロアに戻るように言われて、部屋を出る。しかし、突然自分の身に降りかかった疑惑に動揺を収められず、休憩室で少し気持ちを整理してからに自分のデスクに戻ろうと思い、足を進める。

 休憩室について、長椅子に腰掛けて息を吐くと、緊張感が解けて一気に脱力してしまった。僕のパソコンからウイルスが広がってしまったなんて、許されないことだ。けれど、なぜそうなってしまったのか思い当たることはない。そこまで考え、僕はなぜかふとアカツキからのメールを思い出した。そういえば、アカツキから謎の猫の画像がついたメールが届いたことがあった。僕はアカツキが何か伝えたいのかと思って、その画像をクリックしてしまった。メールと画像自体は普通のものだったけれど、アカツキから送られていたメールを開いて、そこからウイルスが広がったのなら時系列としては辻妻が合う。

(まさか……そんなはずないよね……)

 不安を振り払うために頭を振って立ち上がると、休憩室の扉が開かれた。そこに立っていたのはヴィッセル指揮官だ。彼は心配そうな顔をして、早足でこちらに向かってくる。

「ヒビキ。大丈夫か?」

「ガム、ヴィッセル指揮官……!」

 ヴィッセル指揮官は僕の隣に座って肩を抱き寄せてくれる。突然の出来事に頭がついていかないが、ヴィッセル指揮官の手が優しく背中をさすってくれていることだけは分かる。

「ヴィッセル指揮官……どうしてここに……?」

「先程、辛そうな顔で会議室を出て行ったから、気になってな。……辛いことがあったら、力になると言っただろう」

「……」

「俺はお前の味方だ」

 僕はアカツキの願いを断れずに、ガムラさんを騙しているのに、彼はそんな僕を信頼してくれているという。どうしてこんなにも優しいのだろう。

「ありがとうございます……」

「気にするな」

「あの……ガムラさん。……っ!!」

 その優しさに触れて、僕はアカツキからのメールのことを伝えてしまおうかと思った。その瞬間、頭に鋭い痛みが走り、うずくまる。

「ヒビキっ!大丈夫か」

「……だ、大丈夫です」

「今日は精神的に疲れたんだろう。横になって休んだ方がいい。指揮官室に大きいソファがある。そこで寝て休め」

「い、いえ、大丈夫です。ここで、少し座っていれば」

 頭痛が治まってから立ち上がると、何か言わなければいけないことがあった気がするのに、頭に靄がかかってしまったように思い出せない。ガムラさんは心配そうに僕を見つめている。僕はふらつきながら休憩室のベンチに座り、少し休むことにした。ガムラさんはそんな僕の隣に腰掛け、何も言わずにただ寄り添っていてくれた。僕はヴィッセル指揮官の優しさに甘えて、しばらくそうしていた。

 

 その後、僕を心配するガムラさんと別れて、経理部のフロアに戻った。フロアに入った瞬間、経理部の狼獣人からは冷たい目で見られた。経理部以外の狼獣人からは遠巻きに見られて、ひそひそと話をされている。同僚達の豹変ぶりに、何が起きているのか全く分からない。悪意のこもった視線を浴びながら、僕は自分の席に着いて仕事を始めた。

 それから数日間、居心地の悪い日々が続いた。僕は誰かと話すこともなく、ただ黙々と仕事をしていた。そんなある日、仕事を終えて机の上を整理してから帰ろうとしていると、誰かから呼び止められた。振り返ると、そこには他部署の同僚がいた。確か陸上部にいる優秀な狼獣人で、僕と同じ年に入省した人だ。

「ホンマ」

「え……?は、はい」

 その彼がいきなり話しかけてきたので、驚きつつも返事をすると、彼は僕を睨みつけた。

「お前がウイルスをばら撒いたと聞いた。お前はウルフワム打倒連合軍のスパイなんだろう」

「……っ?!」

 同僚の口から飛び出した言葉に、心臓が止まるかと思った。アカツキのことを隠していることが裏切り行為と言えるなら、僕はまさしくスパイと言うことになる。咄嗟に否定するが、そんな不安から言葉尻が震えてしまう。

「ち、違う……」

 そんな僕の様子を見て、その同僚はますます憤ったように声を荒げる。

「違わないだろ?そんな見た目をしてるのも、全て演技なんだろうが」

「見た目?そんな……」

 彼の責めるような言いぶりに、訳が分からず、僕の目にはじわりと涙が浮かんできてしまう。経理部の部員達も僕達の様子を、固唾を飲みながら見守っている。そうしているうちに、その同僚は僕の近くまでやってきたと思ったら、ヒクヒクと鼻を動かして、不思議そうに言った。

「お前、匂いがない……?」

 同僚は僕の様子を見て、ごくりと喉を鳴らし、目の色を変えて、僕の手を掴んできた。

「……許して欲しいなら、何をすればいいのか分かるだろ?」

「……え?な、なにって……?」

「決まってるだろ」

「ひっ」

 彼が僕の手を引いて迫ってきたその時、後ろから伸びてきた大きな手が僕と彼を引き剥がした。咄嗟に後ろを見ると。僕を庇うようにして立ちながら同僚の手を阻んでくれたのはガムラさんだった。号令のような声を張り上げて咆哮しながら、叱責する。

「お前等っ!!!」

 その嵐のような声に、その場にいる者は直立不動になり、ガムラさんの方を見ている。

「ヒビキは既に事情聴取を受けて、処罰理由なしと判断された!この件でヒビキを責めるのは、省の風紀違反だ!この場にいる者は全員始末書を書いて提出しろ!」

 ガムラさんの凛とした声で命じられると、僕をスパイだと言った同僚は、群れのリーダーに従う狼のように引いた。僕は大きな背中に隠れて、ガムラさんが守ってくれるのを眺める。ガムラさんは毅然とした態度を崩さずに、口を開く。

「ヒビキはスパイではない。もしそう思う者がいるのならば、この場で直接私に言ってくれ」

 ガムラさんの言葉を聞いて、先程まで僕に詰め寄っていた同僚は、ぐっと言葉を詰まらせる。そして、周りの者達も何か言いたげな瞳をしていたが、結局何も言わなかった。それを見て、ガムラさんは僕を経理部のフロアから連れ出して、休憩室までやって来た。

「大丈夫か?」

「はい……ありがとうございました」

「……最近、ウルフワム打倒連合軍の動きが活発でな。共同防衛省は日本人と狼獣人が働いているから、どうしても疑心暗鬼になりやすい。俺の監督が行き届いていないせいで、怖い思いをさせてしまってすまない」

「そんな……ガムラさんは何も悪くありません。僕こそ迷惑をかけてしまって……」

「迷惑だと思ったことはない。それより、本当に大丈夫か。体調が悪いように見える」

 ガムラさんに指摘されて、ギクリとする。このところ、周りからの目線が気になり、あまり眠れていなかった。そのせいか、軽い頭痛が続いているのは確かだった。

「あ……実はここ数日、頭が痛くて」

「……そうか」

 そこまで聞いて、ガムラさんは少し考え込むような様子を見せたが、すぐに顔を上げた。そして、僕の背に手を当てて、心配そうな様子で話しかけてくれる。

「今日はもう帰った方がいいだろう。送っていこう」

「え?いや、でも、まだ業務時間中で……」

「無理をする必要はない。今日はどうせ、ヒビキ以外の職員は始末書の作成で手一杯だ」

 そう言われ、半ば無理やりにガムラさんに社宅まで送ってもらい、早退することにした。そして、驚いたことに、ガムラさんも僕の部屋にやって来た。

 そういえば、次は僕の部屋で会うことになっていた。僕の部屋はガムラさんと左右対称の間取りで、家具は量販店で揃えた至って普通の一人暮らしの部屋だ。部屋の奥には量販店で買った水色のカバーに包まれたベッドがあり、その手前に少し大きめの黒いローテーブルがある。下に引いてあるグレーの丸いラグは適当に買ったものだ。

「ここがヒビキの部屋か」

「誰も呼んだことがなくて、散らかっていてすみません」

「誰も……? 」

 そういえば、アカツキと仮とは言え恋人同士であるのに、部屋に来たことがないなんて変だ。この前も同じ失態をしてしまったのに、なんて馬鹿なんだ。そう気がついて焦って訂正する。

「え、と、アカツキとは彼の部屋で会うことになっていたので」

「……そうか」

 そう言うとガムラさんは何か考えているようだった。疑問に思っているうちに、頭痛は大分良くなっていた。ガムラさんの近くにいると、頭痛が和らいでいく。

 ただ動こうとすると、ガムラさんが心配そうにするので、ベッドに入ることにした。パジャマに着替えて、ベッドに座っていると、ガムラさんがベッドの縁に腰掛けた。

「ガムラさん、送っていただいて、ありがとうございました。もう寝るだけなので」

 僕は御礼を言って、仕事に戻ってもらおうとした。その時、ガムラさんが話し出した。

「……この前、ヒビキは私の側にいたいと言ったな」

「……はい」

 この前、口から出てきた言葉を確かめられる。ガムラさんは少しだけ言い淀み、口を開いた。

「俺は」

「……?」

「ヒビキを傷つける全てから、守りたい。それがヒビキから何かを奪うことになっても」

「え……」

 僕はガムラさんが言っていることを上手く飲み込めないまま、彼を見つめていた。そんな僕を見て、ガムラさんは顔を近づけてきた。僕はその様子を見ながら、彼の顔が僕に覆い被さるのを見ていた。

 かさついた唇が重なって、僕がぴくりと跳ねると、唇は直ぐに離れる。離れたと思ったら、名残惜しいかのようにまた合わせられる。二回目なのに、心臓がドキドキと音を立てて鳴る。僕は思わず目を瞑る。

 優しく、壊れやすいものに触れるかのような繊細な触れ合いが続き、僕のお腹の下の方にチリチリとした熱を生み出す。

「ん……」

 ガムラさんは掛け布団の上にある僕の手を握り、キスをする。あたたかく慰めるように繰り返されるキスは、僕の頭痛を少しずつ取り除いていく。僕はキスに夢中で、彼の手を握り返す。そしてどれほどの時間が経ったのか分からないが、ガムラさんの顔が離れていった。

 僕は束の間の触れ合いに恍惚としてしまう。そして、ガムラさんはそんな僕を熱っぽい視線で見つめ、僕に囁く。

「俺が必ず犯人を見つける。ヒビキは何も心配しなくていい」

 頭痛がなくなり、知らずに疲れが溜まっていたようで、急に眠気が襲ってくる。ガムラさんは僕にゆっくり休むようにと言い、部屋を去ってしまった。僕はしばらく呆然として、スイッチが切れたように眠ってしまった。朝起きると、アカツキがくれた銀色の指輪は薬指から消え去って、どこかへいってしまった。

 *

 

 あれから、ガムラさんの一喝が聞いたのか、職場ではあからさまな嫌がらせはなくなったが、遠巻きに見られていることは変わらなかった。そんな中、ガムラさんは僕を励ますように時間を作ってくれた。あの日のキスのことは何も触れられなかった。きっと僕が惨めで見ていられずに慰めたかったのだろう。

 二人でいるときは、家で料理を作ったり、一緒に本を読んだりしている。穏やかな時間が流れるが、ガムラさんは仕事が忙しそうで、そんなふうに過ごせるのは一週間に一日あればいい方だ。ガムラさんは、最近は滅多に共同防衛省にいないと聞いた。どこかで極秘任務をしているのかもしれない。僕に聞く権利はないけれど。

 二人でいる時、ガムラさんは僕の頭を撫でたり、軽く触れてくる。僕はガムラさんに触れられると、心が湧き立つようになっていた。そして不思議なことに。その一瞬だけ、頭痛が無くなるのだった。

「今度、外に出かけるか」

「え……?」

 二人で本を読んでいた時に、ガムラさんが僕に声をかけてきた。思いがけない誘いに戸惑っていると、ガムラさんは少しだけ耳を下げてしまう。

「嫌か?」

「いえ!行きたいです」

 そのことに気づいて不安にさせてしまったことが申し訳なく、行きたいと返事をすると、ふわりと尻尾が揺れたような気がした。なんだか、ガムラさんが可愛く見えて仕方がない。

「じゃあ、決まりだな。待ち合わせ場所は後で送る」

「楽しみにしてますね」

「ああ。俺もだ」

 憧れの人が近くにいてくれて、僕を思いやってくれている。そのことが僕には有難いことに思えて、胸が一杯になる。

「……あの」

「どうした」

「……なんでもないです」

「なんだそれは」

 僕はガムラさんに抱きつきたくなって腕を伸ばしかけるが、途中で思い留まる。よく分からない僕の問答にガムラさんは少しだけ笑う。そんなことをしたらきっと、ガムラさんを困らせてしまう。それに、これはきっと僕の我欲を満たすだけの行動だ。誤魔化すように笑うと、ガムラさんが頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、僕はつい甘えるようにすり寄ってしまう。

「甘えたがりだな」

「……」

 その暖かな声は僕の全てを受容してくれているようで、僕の心はガムラさんへの思いで溢れている。

「今日はもう帰るか」

「はい……」

 もう離れなければならないことに寂しく思っていると、ガムラさんは苦笑して僕の頭を撫でる。

「送っていく。今週は外部での仕事があるから共同防衛省に行くことはない。もし前のようなことがあれば、すぐに連絡をくれ」

「分かりました……」

 僕を案じている声に胸が締め付けられる。ガムラさんに見送られながら、玄関を出ると、夏の夜風が頬を掠める。その風は僕の体温を超えるように暑く、僕の中に渦巻いている熱を冷ましてはくれなかった。

 

 

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