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「ぁぅ…!ぁ、ぁあっ!や!や!…めぇ」

 蒸し暑い風が開けっ放しの窓から入ってくる。俺の上で腰を振る男から、ぽたりと汗が降ってきて、たやすく二人の体温が交じり合う。

 窓の外からはパァン、パァンと火薬が弾ける音がして、その音に少し遅れて、歓声が上がっている。真っ暗な部屋の中が、窓から入ってくる色とりどりの光に照らされている。その様子を揺れる視界で見つめて、とても綺麗だと思った。

 地元の夏祭りの夜、俺は、とてつもなく美形な男に抱かれていた。クーラーもつけずに、男2人が密着して動いていると、熱中症になりそうなほど熱い。汗だくになりながら、動物的な本能でお互いをむさぼりあう。俺を抱く男は、ひんやりした見た目をしているのに、見た目からは想像できないほど熱く、俺を屈服させる意思をもって動く。

 蕩けるまで解されたぬかるんだ孔に、熱い棒がこれでもかというくらい深く挿入ってくる。男を咥えるために開かれた股関節がきしりと痛むが、それを上回る愉悦とアルコールの余韻で、頭の処理速度は地に落ちていた。後ろで快楽を拾うのは初めてで、奥を遊ぶようにこねられると甘い疼きが湧き上がる。

 甘い声を上げてしまったことが悔しくて、負けてたまるかと後ろの穴を締めつけると、男は息をつめ、腰を止める。密着した腹筋に力が入っていることが分かり、イキそうになったことが分かる。

「ふっ…」

「…このっ」

「んぅ、あ、やめっ!!」

 ざまあみろと言うかのように笑うと、仕返しのように、既に知り尽くされた快楽の痼を押しつぶされた。

「あぁあッ!!!…ダメだ、そ、こは。や!ぁー…ぅ」

「はっ…あー、やべ」

 一瞬ちかちかと目の前が点滅したが、達するまでは届かず、俺のちんこからは白濁した汁があとからあとから溢れ出てきている。俺をぐずぐずにするためにしつこく腰を押しつけている男は、熱を孕んだ目で俺を見つめる。

 ふと汗が目に入りそうになったのか、腰を止め、熱い息を吐き出しながら、腕で額を拭う。前髪がかきあげられ、色気がまして、思わずまた孔をキュンとしめ、中にある剛直をしゃぶってしまう。

 グッと男が息をつめる音がして、中にある男の熱棒がとぷりと先走りを垂らしたのが分かる。また孔を締め上げたことで、男はまた俺がわざとしたと思ったのだろう。ちがういまのは不可抗力だ。

「そんなに早くイって欲しいんですか…?」

 男はイラついたのか、俺の足を肩にかけ、ぐっと体重をかけてきた。期待か恐怖か、ヒクリとなる俺の喉を無視して、男は前立腺を亀頭で深く抉るように、体重をのせ、角度をつけて出し入れする。パンパンと男の腰と俺の尻が当たって音がする。

「ひぁぁあ!!も、ら、めぇ!!や!イケ、なっ!ぁ!あ!ぁあああ!!!」

 俺のちんぽはこれ以上ないほど膨らんでいるが、ガクガクと腰を揺らすのみで、爆発はしない。でも、意識が飛んでしまいそうなほどに気持ちいい。これが中イキってやつなのか。目の前がちかちかとして酩酊しているような俺の様子を見て、男は少しだけイラついた声で、こういった。

「せんぱい、これ以上、煽んないで」

 お上品な顔には似合わない甘えた雄の声を聞きながら、俺は愉悦に沈んでいった。

~~~~

「じゃあ、吾妻、あとはよろしくな!」

 課長は俺に声をかけ、颯爽と部屋から出ていく。俺、|吾妻湊《あづまみなと》は、イベント会社につとめる平凡な会社員だ。大学卒業後、新卒で入ったこの会社に勤めて四年目になる。

 イベント会社という華々しい業界にいるにもかかわらず、俺はどちらかというともさついている方だ。会社にいる先輩方のように、シュッとしたタイプではない。ただ、小さいころからバスケをやっていたため、そこそこ身長があり、筋肉もある程度ついている。身長マジックで、去年までは彼女もいた。まあ、仕事が忙しく、フラれてしまったが。

 今日は、俺の会社が企画した夏祭りイベントの日だ。有名アーティストを呼び、野外ライブ会場はほぼ満員。ビアガーデンの人入りも上々だ。出店もそこそこ稼いでいるように見えるので、売上は目標金額に達するだろう。

 浴衣姿の客とすれ違うと、俺の服装がビジネスカジュアルのためか、チラッと視線が向けられるのが分かる。仕事なのでボトムスは一応スーツで、周りから浮きすぎないように青のチェック柄のワイシャツを着ている。歩いているとスーツとシャツの中が蒸れて、全身が汗でびしょ濡れになる。

 そんな濡れ鼠のまま、俺はある場所を目指して、早歩きでかけていく。その理由は、会社至急の携帯に、課長から魔のチャットメッセージが入ったからだ。

ー吾妻くん、屋形船きてちょ

 課長は40過ぎのおっさんで、よく言えば明るく、悪く言えば軽薄な人だ。イベント企業に勤めるのが天職だと感じる。テレビのプロデューサーがやりそうな裸足ローファーをしていたときは、なんというか脱力してしまった。それにしても、きてちょとはなんだきてちょとは。

 今夜のイベントは、目玉の打上花火が無事に終われば、事故もなくフィナーレを迎える予定だったのに、面倒な仕事が舞い込んでしまった。

 呼ばれた先は、河岸に浮かんでいる一際目立つ屋形船のことだろう。かなり大きいサイズで、ここら辺でチャーターできる屋形船では一番立派なやつらしい。

 この屋形船の中では、うちの会社の役員が、今回の夏祭りのスポンサーを接待をしていると聞いている。花火の時間になったら、岸から離して、フィナーレの打上花火がバッチリ見える位置まで移動すると聞いている。つまり、特等席中の特等席だ。

 そんな中、俺が呼ばれる理由が分からないが、どうせ「何か一発芸しろ」とかそういう理由だろう。そう思って、俺は屋形船までの道中であるものを仕込んだ。これを披露する機会がないことを切に願いつつ、船に到着した。

 屋形船は、河岸に繋がれたままになっていて、俺は揺れる足元を見て。船の中の宴会場には10人ほどのおじさんが、ヘベレケでヘラヘラ笑っていた。その中には、ネクタイを頭に巻いている人もおり、まるで地獄絵図だ。もうちょっとちゃんとしていて欲しかった。

 扉を開けるなり飛び込んできた光景に嫌気がさしていると、若い男がこちらを見つめているのに気がついた。

 視線の方に顔を向けると、バチっと視線が合う。男は、アーモンド形の目とスッとした鼻梁、下唇だけ少しばかり厚い整った唇をした、大層な美丈夫だった。少しだけかきあげられた髪が色っぽさを増している。夏祭りらしく紺の浴衣をきており、わずかに見える太い首筋が、芸術品のような男に、男らしさをプラスしていた。

 ただ、俺と目が合った途端、さっと目が逸らされた。うっすら耳が赤くなっていたが、なんなのだろう。

 不思議に思いつつも、俺は自分の心を鎮めるために、もう一度阿鼻叫喚一歩手前の部屋の中を見渡すした。そうすると、うちの社長が一番上座で、座りながら日本酒を飲んでいるのが見えた。そして、社長の真向かいに、先ほど目が合った若い男が座っている。つまり、彼が今回の夏祭りのスポンサーなのだろう。

 今日の夏祭りは例年、複数のスポンサーから幾ばくかの寄付をもらって夏祭りを運営していた。しかし、今年は、スポンサーは1社のみで、例年の倍額出してくれるという奇跡が起こったのだった。

 そして、そのスポンサーは当日になるまで運営に口を出さず、ただお金だけサポートしてくれた。そんなこんなで、今回のスポンサー様様は、うちの会社では神様扱いなのだ。

 今回のスポンサーは、某有名ホテルチェーンの御曹司で、資産運用のための会社を通して、この夏祭りのスポンサーをしてくれたのだと聞いている。金持ちの考えることは分からないが、ある種の金持ちの道楽なのだろうと思う。

「吾妻くーん。待ってたよお」

 会場に入るとすぐ課長が出迎えてくれた。が、全身に日本酒の匂いが染み付いており、ウッと顔を背けてしまう。

「そんなに飲んでないもん。ふぅーってしたげる。ふぅーって」

「やめろ、ください」

 支離滅裂で絡んでくる課長はかなりうざい。俺は冷たく睨んだが、この人には効くはずがなく、息を吹きかけられてキレそうになる。若干言葉遣いも危うくなってしまった。

「俺はなんで呼ばれたんですか」

「あっ!嫌がらせしてる場合じゃなかった。瀬崎さん!吾妻くんきましたー」

 この人、嫌がらせって言った。ハラスメントだハラスメントと思いながら、課長が声をかけた先は、先ほど目が合ったイケメンだった。イケメンは俺の方をずっと見ていたのか、また目が合う。

「瀬川さん?」

「そう!吾妻くん、瀬川さんの高校の先輩なんだってねー」

 このおじさんは語尾を伸ばしながらじゃないと話せないのか、と絶対零度の視線で見つめながら、はて、と思う。

 せがわ、なんて後輩いただろうか。俺が通っていた高校は、いわゆる有名私立というやつで、親が裕福なやつはいっぱいいた。ちなみに、俺は一般家庭出身だが、スポーツ特待をもらい、学費免除で通っていた。

「瀬崎さんて、いくつなんすか?」

 名前だけでは思い当たらず、少し小声で課長に確認する。1コか2コ下なら、同じ時期に高校に通っていたことになる。

「えっと、吾妻くんより2つ下の24歳だよ。だから、吾妻くんが3年生のときに1年生だったんだろうねー」

「…はあ」

 申し訳ないことにまったく思い出せない。

「まぁ、積もる話もあるだろうから!吾妻くん、瀬崎さんにとなりに座ってお酌してー!」

まあ、いわゆる接待だな…。後輩といえども初対面微妙だけど、今回の夏祭りの成功はこいつの財力なしにはありえなかったわけで、ここはいっちょ社会人としてやりきらなければいけない。

俺は腕まくりをして、瀬崎さんが座る上座に向かった。

~~~~~~~~~~

「吾妻と申します。今回はこの夏祭りに出資いただいて、ありがとうございました。瀬川さんのおかげで、素晴らしい夏祭りが企画できました」

 隣に座った俺は、すぐさま徳利を持ち上げ、社会人スマイルを浮かべてお酌をする。そうすると、瀬川さんは少し慌てたように返してくれる。

「あ、|瀬川幸一郎《せがわこういちろう》です。ご無沙汰しています。吾妻先輩」

 たどたどしく自己紹介しながら、にこやかに微笑むイケメンにうっすら色気を感じてしまった。改めて見ると、めちゃくちゃイケメンだ。耳がうっすら赤いことが気になるが、結構酔っているのかもしれない。

 俺が隣に座っても目線が一緒、というか少し上なので、めちゃくちゃタッパがあるのだろう。

 お猪口を持つ瀬川さんの手は、すらりとした指に男性らしさを感じる節が目立っている。同性でありながら、惚れ惚れしてしまう。その手に握られたお猪口に酒を注ぐが、瀬川さんが俺のことを「先輩」と呼ぶからには、どこかしらで接点があったんだろうか。

 まったく記憶にない。そもそも、こんな美丈夫がいたら、覚えてると思うのだが。

「瀬川さん。俺と同じ朝倉高校なんですよね。さっき、課長から聞きました」

「…はい、そうです。僕が1年生のとき、吾妻先輩は3年生で、ずっと見てました。僕の方が後輩なんで敬語はやめてください」

 俺がニュアンスではじめましての雰囲気を匂わすと、瀬川さんは一瞬傷ついた目をしたが、それに気づいた途端すぐに消え失せてしまった。

 その様子を不思議に思いつつも、ずっと見てたということにピンとくる。

「いやいや、そう言うわけにも。もしかして、バスケ見てくれてたりしました?」

 心当たりがあるところをズバッと聞いてみる。

 実は、俺は高校まではバリバリのバスケ少年で、自分で言うのは恥ずかしいが、同世代の中で有名になるくらいに活躍していた。高校3年生の春にプロリーグからの誘いがあったので、プロになろうと思っていた。俺はバスケが好きだったし、身体が動かなくなるまではバスケをしたいと心から思っていた。

 けれど、人生はそんなに上手くいかなかった。

 高校3年の夏に膝を痛めてしまったのだ。本当は2年のことから痛み始めていたのだが、誤魔化しながらやっていたら、練習中突然倒れてしまった。

 これ以上バスケをやるなら、歩けなくなるとドクターストップがかかり、心配したコーチとメンバーから体育館に入れてもらえなくなり、バスケを辞めざるをえなかった。

 いま思えば、あの頃は人生で一番荒れた。心の底から人生どうでもいいやと思った。

 俺はバスケというスポーツが好きで好きでたまらなかったし、少しでも上手くなりたいと毎日思っていたし、上手くプレイができたら嬉してたまらなかった。

 怪我で脚が使い物にならなくなって、バスケは俺の人生から消えた。その実感が湧いた時、寝れなくなり食べられなくなった。あの時は俺が俺でなくなるかもしれないと思ったほどだ。

 そんなとき、あることがきっかけで俺は立ち直り、大学に進学することを決め、今の会社に入った。何故だが急に、そのきっかけを作ってくれたあいつと真夏の夜を思い出した。

ーああ、懐かしいな。あいつ元気かな。

 自分だけのモノローグに入りそうになり、慌てて気を引き締める。いまは瀬川さんだ。と意識を戻すと、瀬川さんが俺のことをじっと見つめていた。

「はい。ずっと、見てました」

 ぱちりと目が合い、目を逸らさずに言い切られる。ずっとのところに淫靡な熱を感じ、何故だか背筋がゾワリとしてしまう。

あれ、もしかして、これはー。

俺は大学生のときに男も女もイケるバイセクシャルと気づき、これまで男女ともに一夜の関係を迫られたこともある。そのたびに感じていた熱を瀬川さんから感じる。

「…よかったら、先輩も飲んでください。酔い潰れても大丈夫なように、2階に部屋とってあるので」

瀬川さんは熱のこもった空気にあてられて、俺は言われるがままに日本酒を注いでもらった。辛口の吟醸酒の透明な水面には困惑した俺が映っていた。

2(冒頭過去シーン)

 ちくしょう、くそったれ、神様のばか。俺が何したって言うんだよ。歩くたびに痛む膝に舌打ちしながら、蝉の声を振り払うように屋上までの階段を登る。

 今日の朝、チームメイトは全国大会に出発した。本当だったら俺もそこにいたはずなのに。そう思うと、どうしても割り切ることができず、見送りはできなかった。

 医者の診断は、変形性膝関節症だと言うことだ。バスケのやりすぎで俺の膝の軟骨はなくなり、これ以上やれば神経を傷つける可能性があるそうだ。そして、神経が切れれば歩けなくなることを説明された。

 その診断はすぐさま学校に知らされ、俺は次の日から体育館から締め出された。扉を叩いて叫んでも返ってくるのは沈黙ばかり。信頼していたチームメイトに裏切られた気分で、俺は自棄になっていた。

 全国大会に行くはずだった日の放課後、俺は家に帰らず、学校の屋上に上がっていた。

 とても暑い日で、外にいるだけで汗が滲んだ。だけど、もうどうでもいい。すべてがどうでもいいと屋上の地面に寝転がっていた。どれくらい時間が経ったのか分からないが、ふと見渡すと日が沈み、夜の闇に包まれていた。

 屋上の入り口で非常灯が弱々しく光り、それ以外は満天の星空が俺を包んでいた。

 体を動かす気になれず、その星々を見つめていると、屋上の入り口が開く音がした。警備員か誰かだろうかとのろのろと目を向けると、そこには小さくて細っこいメガネくんがいた。

 俺の学校は学年ごとにネクタイカラーが決められており、そいつのネクタイは緑色で1年生ということが分かった。

「…なに」

細っこいメガネくんは屋上に座ったままの俺をじっと見ている。何か用だろうか。

放っておいてほしいということを言外に込めて、後輩君を見やる。

 すでに他の生徒は下校している時間帯のはずで、何しに来たのか分からないが、いま俺は動きたくない。

 そうしていると、ポツリと後輩君が口を開いた。

「…さっき、先輩が体育館から追い出されてるのを見て、追いかけたんですけど、一人になりたいかなとも思って。でも、なかなか降りてこないから、倒れてるんじゃないかと心配で…」

 支離滅裂だが、要するにこの後輩君は俺を心配して、ここに来てくれたということらしい。見たことない顔なので、バスケ部のつながりでもないだろう。

 メンタルがこれまでになく弱っているからか、俺はこれまでの関係性がない人からの心配が、そのとき無性に胸にきた。

「…つらい」

 夜の闇が顔を見えにくくさせる。そのおかげか、これまで親にもチームメイトにもこぼせなかった本音がこぼれていく。

「俺はバスケが好きだし、プロになるのが夢だったんだよ。そのために俺は努力をしたし、その努力が実ってくれると思ってた。…だけど、なんか全部間違ってたのかもな。俺は」

 最後の方が、思わず声が震えた。泣きそうなことが伝わったのか、俺のファンっぽい後輩君が息をのんだ次の瞬間。

「ッそんなことないです!!!!!」

 後輩君がいきなり大声を出す。

「先輩のやってきたことが間違いだったなんて、絶対そんなことありません。僕が保証します。僕は、先輩が心底楽しそうにバスケやってるの見て、すげーかっこよくて、先輩のバスケ見てると嫌なこと忘れられました」

「…」

「…僕、実家がごちゃごちゃしてて、親も兄弟も全員敵に見えるんですけど、先輩がバスケしてる瞬間だけ、世界って楽しいことが残ってるんだと思えました。そう思わせてくれた先輩は何も間違えていないし、これからも間違えません」

 強く言い切ってくれる後輩君の言葉が胸にすっと入ってきて、目に水分が溜まって、頬をつたっていった。

 それに気づかれないように下を向く。そうすると慌てた後輩君が俺の近くまで近寄ってきた。

「でも、俺もうバスケできない」

 弱々しく出た俺の声。それを励ますように、手を握られる。

「先輩ならバスケ以外でも絶対に大丈夫です。万が一もしだめでも、僕がなんとかします」

 熱烈な言葉のあと、頭上からパァンと火薬が弾ける音がして、おもわず上を見上げた。そこには大きな打ち上げ花火が花開いていた。

 そういえば、今日は隣町の夏祭りだった。その祭りのフィナーレで打ち上げ花火をやっているのだろう。

 学校の屋上からは、視界を遮るものが何もなく、とてもはっきりと花火が見えた。風がないのも相まって、まるい光の玉が一瞬鮮やかに光り、そして消えていった。金色の大きな大玉花火が弾けて消えていく。

「きれいだな…」

 花火はこれだけ綺麗でも一瞬で散っていく。人生もそんなものかもしれない。やりたいことも夢も変わっていくし、ずっと変わらないものなんてない。

 後輩くんがいった「大丈夫」という言葉と儚い花火があいまって、俺の苦しみが少しだけ和らいでいくのを感じた。完全に癒えることはないかもしれないが、前を向くことはできそうだ。

 少しだけ落ち着いて、泣きそうだったことをごまかすかのように、なぜかまだ手を握ったままの後輩君に話しかける。

「俺のこと、追いかけてくれてありがとな」

「いえ。僕は」

 花火の音に遮られてよく聞き取れなかったが、俺たちは手を握ったまま、花火が打ち上げるのを隣り合って見上げていた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 花火が終わると、後輩君は手を握っていたことを大層照れて、顔が真っ赤になっていた。お礼の代わりに、頭をポンとたたいて、一緒に帰ろうと言った。

 駅までたわいもない話をして、家に帰った家についてから、名前も聞いていなかったことに気づいたが、落ち着いたら1年生の教室を見に行くことに決め、その日の夜はひさしぶりにすっきり寝ることができた。

 翌日、すっきりした気持ちのまま、チームメイトにテレビ電話をかけ、試合前の彼らに「頑張れよ」と伝えたら、みんな泣き出してしまった。

 泣きながら、体育館から締め出したのは、俺の膝が悪化しないようにという配慮からだと明かされた。

勝ちたいだけなら、俺の膝がどうなろうが、俺を出せばよかった。今後一生、俺の膝は使い物にはならなくなるだろうが、今年の夏の試合くらいはギリギリ行けただろう。

 それをやめさせたのは、チームメンバーだった。「勝つことより、お前が大事だ」と泣きながら言われ、つられて俺も泣いた。その後いろいろ吹っ切れた俺は受験勉強に邁進し、第一志望に受かることができた。

 ただ、それからその後輩に会う機会はなかった。1年生に心当たりがないかきくと、転校してしまった奴がいるといっていた。そいつは特段親しいやつがおらず、どこへいってしまったのかは分からなかった。

 青春の1ページを思い返しながら、この会社に入るきっかけも、あの花火だったと思い出した。高校生の俺を慰めてくれた花火が忘れられなくて、全国各地の祭りを企画するこの会社に入ったのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 しかし、そういえばいまは接待中だったとハッとした。

 俺はいま結構酔っぱらっている。瀬川さんが飲ませてくるのに加え、おいてある日本酒がどれも俺好みだったため、ハイペースで飲み続けてしまった。

 イベント会社だけあって、飲み会と接待は日常茶飯事で、俺もそこそこ酒に強くなっていたはずなのだが、今日は忙しく水分をろくに取っていなかったこともあり、ハイスピードでアルコールがまわった。

「吾妻先輩…かわいい」

 フラフラの俺を瀬川さんが甘い視線で見てくる。それに耐えきれないように、先ほどまで思い出していたエピソードを話してみる。

俺の2コ下ということは、瀬川さんはあの後輩君と同じ学年ということだ。もしかしたら、何か知っているかもしれない。

「ということがあったんだけど、いつかまたその後輩君に会ってみたいんだよね」

 アルコールのせいで敬語が怪しくなった俺は、瀬川さんの了解を得て、タメ口をきいている。そうすると、瀬川さんは耳まで真っ赤になり、小さい声で衝撃発言をした。

「…それ、俺です。あの時は眼鏡だったし、苗字も違っていたので…」

「へ…」

「そのときから、ずっと先輩が好きでした」

 驚きのあまり、俺だけ一瞬騒がしさがシャットダウンした。宴会場では、目の端で課長が頭にネクタイを巻き、日本酒の瓶をもって踊っているのが見えた。

「…!!えええ」

「せんぱい!!」

 叫んだ途端、課長の手からスポーンと抜けた日本酒がごつんと俺の頭にぶつかった。さかさまになった瓶からこぼれた日本酒にまみれた俺のシャツと慌てた瀬川さんを感じながら、気が遠くなっていった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 頭の一部がずきずきとする。びしょびしょのシャツを誰かが脱がせようとしてくれている。だが、少し待ってくれ。それを見られると、俺が変態扱いされてしまうー。

 アルコールにまみれた頭を動かし、ようやく瞼をあげるが、腕は重く、介抱している男の手をつかめない。

「吾妻先輩、気が付きました? 瀬川です。シャツ濡れちゃいましたね…。風邪引くといけないので、ちょっと脱がしますね、ッ!!」

 やめろ、みないでくれというように、あらわになったそこを隠そうとしたのだが、その手はグッと押さえつけられ、頭上でひとまとまりにされてしまう。

「…先輩、これ、なんですか」

 ワントーン低くなった瀬川の声に、腰に甘いしびれがくる。

 瀬川は、そんな俺の様子を見つつも、俺のそこを凝視している。俺は宴会芸用に、乳首に絆創膏を張っていたのだった。

 普段なら何が面白いんだか分からないが、アルコールが入るとそこそこウケるので、ときどきやっていた。ただ、今日の絆創膏は小さめで、俺の乳輪がデカいのか、全体的にうっすら絆創膏からはみ出ており、いつもとは違ういやらしさがあった。

「ぁ、ちが…これ、宴会芸でみせる」

「こんなのをいつも見せてるんですか」

宴会芸のためというと、瀬川は更に苛立ったように、絆創膏の上から俺の乳首を強くつまんだ。

「っぁ!!、や、ちくび、や」

 イヤイヤと頭をふるが、身体は正直で乳首と息子がゆるやかに立ち上がっていく。瀬川はしばらく絆創膏のうえからカリカリとひっかいていたのだが、しばらくして片方だけはがしてしまった。汗で蒸れて、いつもより色が濃くなった俺の乳首があらわになる。瀬川はそれを見ると、グッと息をつめ、乳首にむしゃぶりついた。

「ひゃ、ぁ!!…なめるの、だめ、ぁ、や」

 ピチャピチャと、熱い舌が敏感な尖りを押しつぶし、なぶる。俺はそれだけで達しそうになりながら、瀬川の浴衣も同じように盛り上がっているのが見えた。

「…これからは、誰にも見せないでください」

 瀬川から執着と独占欲にまみれた声が吐かれる。俺はこれから起こることを想像して、目の前の男にしがみついた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そして、冒頭に戻り、俺は見事に、後輩君もとい瀬川さんとヤッてしまった。

 

 挿れられるのははじめてだったので、前立腺をつかれるたび、気が遠くなるような快感と出せないもどかしさを感じ、盛大に喘いでしまった。

 最後、瀬川が達するときに、ようやく俺のものもしごいてもらえて、視界が真っ白になるほどの絶頂を味わうことができた。とりあえず身体の相性はとんでもなくいいことがわかった。

 瀬川は横たわり、愛しげな眼をして、俺の腰を抱いて、尻をなでている。瀬川のものはまだ少し大きかったが、見ないふりをする。

ときおり、愛しさが抑えきれないように額にキスをされて、交わった後の甘い雰囲気を醸し出され、俺はすっかりふやけている。

 こいつがあの時の後輩くんだと知って、後輩くんを探しても見つからず、落ち込んでいた高校生の自分を思い出す。あのとき、すでに俺はこいつのことを

「あ、先輩。次が最後の花火です。一緒に見てもらえませんか」

 そういって、瀬川が屋形船の外の空を指さした。そういえば、今回最後の特大花火だけは、出資者である瀬川が決めたと聞いている。その内容は俺たちイベント会社にも教えてもらっていなかった。

パァンと言う大きな音がして、大きな金色の花火が夜空に咲く。大きさも色合いも高校の屋上から見上げたものととてもよく似ていた。

「…きれいだな」

 そう呟く俺の横顔を瀬川が見つめているのが分かる。そうしていると、肩を掴まれて、瀬川と向き合うことになった。

 目の前にはうっすら耳を赤くした可愛い後輩が俺を見つめている。

「…先輩、ずっと、ずっと好きでした。俺とつきあってもらえませんか?」

こんなの、俺に断る選択肢は残されていないだろうが。

「カンパーイ」

 今日は、ビールが美味しい気温である七月中旬のフライデーナイトだ。仕事が終わった人々が弛緩した顔で酒を飲み交わす中、俺は元彼の横で合コンに参加していた。

 

 金曜日の夜はなんだか特別なことが起こりそうな予感がする。俺がわずかに抱いていた、きらめくネオンの中で新たな恋を見つけられるかもしれないという少しの高揚感は、元彼の顔を見た瞬間、またたく間に萎んだ。

 何を言っているか分からないと思うが、俺は男で、横に座るこいつは元彼だ。ちょうど二ヶ月前に別れた元彼は、いつも通りまばゆいばかりに輝いている。

 今日は四対四の合コンだと聞いていたが、正面に座る女の子達は、一人残らず、元彼が気になっているようだ。隣りに座っているからこそ、好意を含んだ目線が少し外れた角度から飛んでくるのが分かる。

「灰谷くん」

 一番可愛いロングヘアの女の子が元彼の名前を呼ぶ。

 

 やめてくれ。思わずそう叫びそうになり、乾杯すらしていないのに、手元に運ばれてきたビールに口をつける。そうでもしないと、みっともない感情でこの場を台無しにしそうだと思ったからだ。

 この合コンが開催される四日前、幹事である俺の同僚から、「メンバーが足りないからどうか」と誘われた。傷心中だった俺が瞬間的に「行きたい」と返事をしたのが悪かったのだろうか。まだ癒えていない失恋の傷をまざまざと感じることになってしまった。

 失恋の傷は新たな恋で塞ごう、なんてよく言われるが、塞ぐもなにもまだ血がだらだら流れ続けているんだから、新たな恋だってすぐに剥がれてどこかへ行ってしまう。

 俺だって、この恋にこんなにハマるなんて想像もしていなかった。今年で三十一歳になる俺は、パートナーを作る適齢期ではあるのだろうが、誰かのそばにずっといるという将来はまだまだぼんやりとしている。モテる方でもないし、このまま一生ひとりかもと半ば開き直っていた時に、革命でも起きたのかと思うくらい衝撃的な恋だった。

 あいつと付き合って休日に一緒にいられる安心感とか、仕事帰りに「ただいま」「おかえり」を言える嬉しさだとかを知って、どうにも人恋しくなってしまったのだ。

 けれど、俺は結局、その人恋しさより、自分が傷つかない方を選んだ。約二ヶ月前、俺は人生で初めてできた恋人を自分から振ったのだ。そして、その振った恋人が、いま横に座る|灰谷樹《はいたにいつき》だ。

びっくりしてぐるぐると考え込んでしまったが、今日の合コンは世間一般では当たりだろう。幹事の店選びのセンスも良く、こぎれいなイタリアンは雰囲気がいいし、食事が美味しそうだから、酒も進むだろう。目の前にいる女性たちは、ふわふわと可愛らしく、性格も良さそうだった。

 ただ、四人とも、誰に気があるかわかりやすく、俺の隣に座るあいつをチラチラとみている。

元カレである灰谷樹は、俺が働く町工場のお得意様である大手文具メーカーで働く営業マンだ。すっと通った鼻梁と形の良い唇、ブラウンがかった髪が、店の明かりに透けている。いわゆるイケメンだ。背も高く、百八十センチはあるだろう。声は低音ボイスながら芯が通っており、聞き取りやすい。

 一度、営業なのに黒髪じゃなくていいのか聞いたが、少しくらい崩れていた方が話しやすいと思ってもらえるんだと笑っていた。そういうところも好きだった。

(相変わらずイケメンだよなあ)

 樹の横顔を見ていると、どうしても付き合っていた頃を思い出してしまう。

 俺は、しがない町工場で、文房具の中に入っている貴金属の製造をしている職人だ。異様に口下手な性格をしているため、学生の頃から、手に職ならぬ技術を身につけて働きたいと思っていた。卒業時に進路に悩んでいたのだが、たまたまこの町工場の社長と研究室の教授が知り合いで、とんとん拍子で入社できた。

 樹と知り合ったのは、今から二年前だ。樹の会社が新作のボールペンを出したいというプロジェクトを抱えていたので、開発メンバーとして、うちの会社から俺が選ばれたのだった。

 樹の会社が求める新作ボールペンは、従来のものよりしっかりと書き心地がよく、それでいて途中でインク詰まりを起こしたり、にじみが出たりすることがないようなものという、ハイレベルな製品だった。

 樹は、商品の品質に関して妥協する気が一切なかった。技術的に厳しい要求を突きつけられ、言い合うこともあった。俺は口下手で目つきが悪いせいで、若干遠巻きに見られることが多いが、樹は俺と四つも年下なのが分からないくらいしっかりと話し合ってくれた。

 何度も試作を重ね、失敗を繰り返し、商品を世に出せたのが、約一年とすこし前。技術が高く、値段も手頃なそのボールペンは、爆発的に売れ、樹も俺もすごく喜んだ。そして、大ヒット商品を生み出したお祝いとして2人で食事に行った時、樹から「恋人になってほしい」と告白された。

 告白のとき、整った顔が少し赤くなっていた。驚きのあまり返答を忘れてぽかんとしていた俺を見ながら、テーブルの上にのせていた俺の手をぎゅっと握られた時には、もうノックアウトされた。

 俺はゲイよりのバイで、男が恋愛対象になることが多かった。一緒に新商品を開発していた時から、つまりとっくの昔に樹のことが好きになっていた。ただ、人付き合いが苦手で、今までお付き合いというものをしてこなかった童貞処女の俺は、付き合ってもいっぱいいっぱいだった。

 樹はそんな俺にペースを合わせてくれて、手を繋いだのは付き合って三回目のデートの帰り、初キスは一ヶ月記念に乗った観覧車の中で、ちょっとディープなキスは二ヶ月記念日だった。どんな少女漫画かと思うほど、ロマンティックな恋愛を楽しませてくれた。

ただ、その先、そう、セックスは少し怖くて、尻にアレを入れるのはゾッとしてしまっていた。多分俺が受け身だろうし、なかなか踏ん切りがつかずに躊躇っていた。いい歳して、「セックスするのは、一年くらい付き合ってからがいい」って言ったら、「もちろん待つよ」と答えてくれたのも、いい思い出だ。この時間がずっと、できれば死ぬまで続けばいいのになあと緩んだ頭をしていた。

 しかし、物事はそんなに上手く続かず、ある日会社のパートさんとの立ち話で、樹が、樹の会社である文房具メーカーの跡取り息子ということを聞いてしまった。今は修行中で営業をやっているが、ゆくゆくは会社を継ぐ予定なのだという。

それを聞いて調べてみると、樹は文房具メーカーの社長である灰谷さんと苗字が一緒だった。ぼけっとしている自分の性格が恨めしい。また、パートさん曰く、商品をたくさん卸している大きい書店の娘さんとの縁談もまとまっているらしい。マジかーと思ったけど、やっぱりなという気持ちもあった。

 あんなにかっこいい男が俺だけのものになるなんて、やっぱりありえないことなのだ。

それを聞いたのが付き合って十一ヶ月になった頃。すぐさま別れようかとも思ったが、できるなら死ぬまで思いだせる思い出が欲しくて、踏ん切りがつかなかった。初めての恋人と過ごした日々は、無くなったら凍えて死んでしまうほど暖かかった。

 別れても、思い出して、それを一生あたためて生きていけるような思い出を作りたいと思った。

そして、その願いを叶えるには、セックスしかないと思った。まあなんだかんだ綺麗事言ったけど、ぶっちゃけ樹とセックスがしてみたかった。

奇しくも交際一年記念日は、俺の誕生日の前日だった。そうして、一年記念日に樹のマンションのベッドの上で初セックスをした。二人で愛を囁きながら抱き合う時間は、本当に幸せだったけれど、その翌日、俺の誕生日の朝に、俺から別れを告げた。

 理由は適当に考えて、告白された時から本当は迷っていた、性格が合わない気がする、セックスもよくなかった、など散々ひどいことを言ってしまった気がする。

 樹の口から、婚約者の女性のことを聞くのは嫌だった。だから、自分から終わらせた。俺は、臆病な卑怯者だ。けれど、樹から「女性と結婚するから別れてほしい」なんてことを言われたら、きっと涙が止まらない。自分がこんなに我がままなやつだとは知らなかった。樹と付き合うと、自分の知らない一面がたくさん出てきた。

 そして、一方的に別れ話を告げて、樹の顔も見ないまま、彼のマンションを飛び出した。自分のマンションへ帰るために乗っていた電車の中で、スマホから連絡先を消した。相手からの連絡も来ないようにブロックした。一度でも連絡が来たら、また、これまでよりずっと好きになってしまうと思ったからだ。最低な誕生日で、それをしたのが自分だと思うと、全てを投げ出したくなった。

 自分で決めたことなのに、しばらくはめちゃくちゃ落ち込んだ。それでも暮らしていくには働かなければならない。幸いにも職人という仕事は、集中力が必要で、バネや芯先を集中して作っている時は別れた後の荒んだ気持ちを忘れることができた。

 樹は時折、うちの会社に営業に来ていたようだが、俺はずっと奥の作業スペースに籠もっていたから、会うことはなかった。あいつが社長になれば、うちみたいな町工場まで来ることはなくなるだろう。樹の会社はお得意様なので、結婚の知らせは耳に入るかもしれないが、少しずつ忘れていきたいと思った。

—------

 そう思ったからこそ、別れてから二ヶ月たって、合コンに参加したのに。店に入った瞬間、樹の顔を見て、衝撃が走った。樹が合コンに来ていたって、俺には何も言う資格はない。新しい恋人を作りたいのかと思うと、胸がチクリと痛むけれど、それを顔に出すことはできない。

 でも、婚約者がいるのに合コンに来ちゃダメだろ。もしかして破談になったのか。

 絶望と卑怯な期待が入り混じり、動揺する自分を気づかれていないかと思い、隣にいる樹を盗み見ると、やっぱりカッコ良くて胸がキュンとなる。乙女か。

 仕事終わりで、緩めたネクタイから見える男らしい首筋に、ゴクリと喉がなる。あの夜を思い出しそうだ。

 樹は、何か狙うように、俺がちびちびとビールを飲む姿を、目をすがめながら見ている。女の子の方ではなく、俺のいる方に顔を向けている。というか、もはや体までこちらを向きそうだ。女の子の方を見たほうがいいんじゃないかなと思いつつも、気まずさが募る。ようやくなされた乾杯の音頭の後、すぐさま話しかけられた。

「|康治《こうじ》、久しぶりだね」

「…あ、うん」

 口下手すぎる俺は、話を広げることもできずに、樹の話しに乗るしかない。

「康治が合コンに来るって聞いて、来ちゃった。彼女ほしいの?」

「…まあ、そうだな」

 

 樹の眼差しに一瞬だけ苛立ちが映ったような気がした。商品開発で議論が白熱した時によく感じていた雰囲気が醸し出される。けれど、樹は一瞬でその雰囲気を霧散させた。

「……いつも作業服なのに、今日はスーツなんだね。…よく似合ってて、可愛い」

「…?!…おう、ありがと」

 最後にさらりと可愛いと言われて、動揺してしまった。樹に可愛いと言われると、蕩けそうになるからやめてくれ。

「羽山さんと灰谷くんはお知り合い?」

 そうやって、俺達が会話と呼べるか分からないコミュニケーションをしていると、樹の目の前に座っていた女性から声をかけられた。思わず、意識を前に向けると、目の前に座っている女性陣が、灰谷との会話のきっかけを掴みたそうにしていた。樹は俺に向けていた顔を女性陣に向ける。

「そう。仲良かったんだけど、最近連絡が取れなくなってて」

「……っ!」

 これで、樹が俺と話すこともなくなるな、でも女性と樹が話しているところも見たくないなと思った瞬間、テーブルの下から樹の手が伸びてきて、同じくテーブルの下にあった俺の手をぎゅっと握られた。心臓が飛び出るかと思った。

「康治には、昨年出た新商品の開発を手伝ってもらってたんだ」

 樹は女性陣と話し始めた。そして、話しながら、俺の指と樹の指を絡めた。テーブルの下で、いわゆる恋人繋ぎをされ、混乱する。動けずにいる俺の手の甲を親指でさらりと撫でられると、樹に触れられているという興奮と、一瞬の快感で、びくっと体がはねる。

 やめてくれと思いつつも、樹と触れ合えていることがたまらなく嬉しい。ビールを持つ手で口元を隠しながら、樹の方をみやると、何でもないように女性陣の方を向きながら、話している。

 そのうち、俺の手の甲を親指で撫でていたのが終わったかと思うと、二人の間にあった手と手が俺の方に押されてきた。何がしたいのか不思議に思っていると、繋いだ手は俺のベルトの下で止まる。ぎょっとして、下を見ると、樹の手の甲が俺の方にあり、感じやすいところをぐっぐっと押された。

「…っぅ」

 いきなりすぎて少し声が出てしまったが、樹が何を考えているか分からず、ぱっと手を離して、テーブルの上に置く。樹は手が離れた瞬間、眉をピクリと動かしたが、握っていた手はするすると自分の方に戻していった。

「…おれ、トイレいってきます」

樹の手の甲で押されたあそこが少しまずいことになりそうで、一旦頭を冷やすことにした。始まって10分程度でトイレに行くなんて、女性陣には不思議に思われるだろうが、しょうがない。思いがけず樹と会ってしまったこともあって、冷静になりたかった。

俺はそそくさと席を立ち、トイレに向かう。樹が目で追いかけているのも知らずに。

 店の奥には、綺麗な洋式の個室トイレが一つあった。居酒屋のトイレらしく、照明が落としてあり、店内より少し薄暗い。ドアを開け、入ろうとした瞬間、後ろからドンッと押された。驚きのあまり慌てて振り向くと、樹が後ろ手でトイレの鍵を閉めていた。

「康治、酔っちゃった?」

ビールをほんのちょっとしか飲んでないのに酔うはずがない。でも、樹がにこりと笑って聞いてくると、酔ったように熱が上がる。

 樹が笑うところは付き合っていたときから見ていたが、今日のの笑顔はどこか凄みがあって、色っぽい。

「…おまえ、ここトイレだぞ」

「知ってるよー」

「連れションでもしたいのか」

 樹は妙なテンションで俺に話しかける。けれど、俺の返事を聞いて、一瞬キョトンとした一樹は、すぐさま笑顔になり、こう言った。

「いいね。じゃあ、康治の手伝ってあげよっか」

 そう言うなり、俺の身体を洋式トイレがある方にくるりと回転させ、後ろから抱きついてきた。と思いきや、スーツのチャックを開けようとしている。

「はっ!? なに、やめろ…っ! 」

「んー。あれ? さっき、少し反応してたのに、戻っちゃってる」

 慌てて、俺の股間を擦り上げる手を掴んで止める。が、その手を後ろに取られてしまった。

「ね。康治、今日なんで合コンなんてきたの?」

 背中に樹が密着している。耳元でそっと囁かれて、身体の芯に熱がともる。素直に恋人が欲しかったからと言いそうになったが、何故か背筋がゾッとしたので、やめておく。

「ぁっ…。 …なんか飲みたい気分だったから…手、やめろって」

「ふーん。飲みたいだけ? じゃあ、今日は俺のマンションで飲み直せばいいよね? 」

「…? …この後か? 」

「ううん。いまから」

「それはダメだろ。瀬川が困るぞ」

 何を言っているのか分からないが、合コンを抜けるつもりなのだろうと思ったが、それだと幹事の瀬川が困る。そう伝えたところ、樹はひょうひょうとのたまった。

「瀬川さんには、もう言ってあるよ。むしろ、三十分したら、俺の会社の後輩が二人くることになってるし」

「は? じゃあ男が六人になるじゃねーか」

「もー!康治は鈍い!そこが可愛いんだけど」

 可愛いと言われ、少し頬を染めてしまったのは、惚れた弱みで許して欲しい。

「とにかく、いまから俺の家に行こ!」

 そう言われて、半分くらいまで下ろされていた俺のズボンのチャックをさっとあげられた。何がなんだか分からないままに丸め込まれて、タクシーに乗りこみ、二カ月前まで通っていた樹のマンションへ向かうことになった。(席においてあった俺のかばんは樹が持ってきてくれていた。なぜだ)

 タクシーではトイレの中での出来事が嘘のようで、この前開発した商品の売れ行きや商品を購入した客からの声を話した。こうやって開発している時が楽しかったなあとしみじみ思った。別れても友人として付き合っていけたらいいのかもしれない。

 友人として付き合って行けば、奥さんのことや、これから生まれるであろう子どものことを聞いても、胸が痛まなくなる日が来るかもしれない。…何年かかるかは分からないが。

 途中、樹がコンビニに寄りたいといって、降りて行った。袋を見るとビールを買ってきていて、どうやら宅飲みをするようだ。

 その瞬間、重大なことに気が付いてしまった。

 …もしも、樹のマンションに、婚約者の女性がいたらどうしよう。むしろ、結婚報告されたらどうしよう。いつかは穏やかに友人として付き合えたらいいが、今日の今日は心の準備が追いつかない。

「…なあ。やっぱりおまえの家じゃないとダメか」

「俺の家に来るのはいや? 」

 なぜかひやりとする声で聞かれ、言葉に詰まる。

「…そういうわけじゃない」

「ならいいでしょ。…もしかして、誰かに操でも立ててるの」

 樹の声が少し硬くなる。樹の機嫌が悪くなるときの合図だ。そうこうしているうちに、樹のマンションに着いた。

 樹のマンションは都心にある三LDKで、初めて来た時は文房具メーカーって結構稼いでるんだと思ったが、跡取り息子なら納得だ。

 これまでと違うことは、エレベーターの中が気まずい沈黙で満たされていることだ。これまでは、付き合っていたころはエレベーターに入った途端、手を繋いでいたから。

 変わってしまった二人の関係にほんの少し心を痛めつつも、着いてしまったものはしょうがないと、腹をくくって、樹の後に続いて、玄関に入った瞬間だった。

「…おじゃましま、ッ!!」

 肩をつかまれて、急に壁に押し付けられたと思ったら、樹の唇が降ってきた。喰らいつくように、口内の粘膜を舐められる。クチュというこもった音が耳に響く。最初こそびっくりしたものの、樹と触れ合えて、ドキドキしてしまう。

 

 訳が分からないのに、この唇を俺から引き剥がすことはできなかった。俺からも必死に舌を合わせると、樹は一層興奮したように舌を潜らせてきた。

 長いキスが終わり、ふとリビングに続くドアをみるが、明かりはついていない。今日は誰もいないようだ。それにほっとし、樹を見ると、熱っぽい視線で見つめられる。

 このままじゃ流されると本能的に感じた。こっちはまだ未練たらたらなんだ。でも、婚約者と二股かけられるのも嫌だ。そう思った俺は、この状況を打開するために、口を開いた。

「…とりあえず、リビング行くぞ」

 樹の胸を軽く押して、俺はリビングの扉を開ける。久しぶりにやって来た樹の部屋は、何も変わっていなかった。むしろ、俺が気に入っていたクッションやスリッパもそのままだった。樹の匂いがして、ドキドキする。

 付き合っていた頃と変わらないリビングの様子を見て、入り口で立ち止まっていると、樹が後ろから抱きしめてきた。

「…ねぇ。康治って、ほんと焦らし上手だね」

「なにが。それよりも、何で俺をここに連れて来たんだ。ちゃんと話し合おう。飲みながらでもいいから」

 付き合っていたころの定位置のソファに腰かけて、樹が買ってきたビールをテーブルに置く。ふかふかで寝れそうなくらい広いソファは、おそらくオーダーメイドだ。身体に馴染む固さが心地いい。

 しぶしぶといった様子で、隣に腰かけた樹は、俺の腰をさらっとなでて、ビールを手に取った。そして、重い溜息をついて、俺と自分の分のビールのプルタブを開けてくれた。

「あのままベッドにゴーしなかった俺を称えて、あらためてカンパーイ」

「? ...それより、瀬川は本当にだいじょうぶなのか」

「だいじょーぶ。むしろ、今日の合コンは俺が言い出したから」

「は?どういうことだ」

「康治は俺が誘ってもきてくれなかっただろうし。さっき、ちゃんと話そうって言ってたよね?…やっぱり別れようって話しがしたいってこと?」

「まあ、そうだな…。別れてるわけだしキスはダメだと思う」

 ここまでのこのこと着いて来てしまった俺が言えることではないが、婚約者がいるやつとは付き合えないだろう。誰も幸せになれない。

 そう答えると、チッという舌打ちが聞こえた。その瞬間、腕をつかまれ、ソファの上で樹に押し倒された。

 おい、おまえ家についてからそればっかじゃないか、狙ってた女性をお持ち帰りした男でももう少し丁寧に進めるぞ、という心の声は発せられることなく、俺の喉の奥に消えていく。

 こういう強引な樹は初めてで、それにもまたキュンとした俺に突っ込みを入れるしかない。そんな俺とは対照的に、一生から悲し気な目で見つめられて、戸惑う。

「なんで、別れたいの?」

「…別れた日に言っただろ。それがすべてだ」

「ふーん。まだそういうこと言うんだ?」

 樹の手が俺の身体を這い、ベルトを取られて、シャツのボタンが外されていく。

「なんだっけ? 告白されたとき雰囲気に流された、一年付き合って分かったけど性格が合わない気がする、セックスも気持ちよくなかった、だっけ?」

 冷たい声に反して、熱い指が俺の皮膚をなぞる。シャツがはだけて、下に来ていたインナーがたくし上げられる。

 淡く色づいた乳首は、初めての時も十分快楽をひろった。樹に触れられるところは全部気持ちよかった。きゅっとつままれると、じわっとした何かがひろがる。

「…っん」

 俺がその隙をついて、樹が下に手を伸ばしてくる。スーツの上から揉むように撫でられ、布を隔てたもどかしさに肌があわだつ。そうしていると、また唇を重ねられて、深く舌を挿れられる。

「…今野さんに何か言われたんじゃないの」

 やっと離れた口から出た言葉をを聞いて、ビクッと体が跳ねる。今野さんは、樹の婚約者のことを教えてくれたパートのおばちゃんだ。

「ちがう…!俺は何も知らないっ」

 

 聞きたくない。やめてくれ。そんな思いで、樹から逃れようともがく。

「…ふーん。まだそんなこというんだ」

 樹は、そんな俺の抵抗を軽くいなして、俺の下肢をピンポイントでこすり上げる。最近、気分が乗らず、自分で処理できていなかったせいか、すぐに身体の熱が上がってしまう。

「いつき、やめろッ…!」

「もう固いね。スーツ着たままだとやばいんじゃない? 精液ついたやつ、クリーニングだすの? 」

「やめッ…や、ァ」

「なんで別れたか素直に教えたくれたら、やめる」

 なにがしたいんだ、こいつは。そんなにも婚約者がいることを確かめさせたいのか。無理やり引き出される快楽と切ない心が反応して、うっすら瞳に水分が溜まる。

 このままイクのはいやだ。けれど、樹の手は止まらず、俺は白旗をあげた。

「くそっ…! 俺は、おまえとずっと一緒にいたかった…!でも、お前がちゃんとした人とこんやくしてるってきいて、おれじゃダメだと思ったんだ」

 最後のほうはぐずぐずで、少し鼻声になってしまった。樹はそんな俺を見て、俺の目をまっすぐ見て言った。

「じゃあ、別れたくない。俺、婚約者なんていないもん」

「は?」

「今野さんには、結婚を考えるくらい大事な恋人がいますって言っただけ」

「あ?」

 樹の言葉を聞いて、婚約者でも結婚を考えるくらい大事な恋人でも同じことだろうがと思って、キレ気味になってしまった。

 樹は苦笑して、俺の頬に軽くキスを落としてから、話しはじめた。

「そう答えたのは、康治と付き合ってるとき。…ここまで言って分かんない? 俺は、康治のことを言ったんだけど。そうしたら、なぜか尾ひれがついて、河野書店の娘さんと婚約したことになってたけど。今野さんの想像力の豊かさ、なめてたよ」

「そんな…」

「それに、俺、康治とヤるまで1年も我慢したんだよ。えらくない?それだけ、康治が大事だったし、ずっと一緒にいれると思ったから待てた。どれだけ我慢したと思ってるの」

 目の前の樹は俺が望んだ言葉ばかり吐く。もしかして、自分では知らない内に合コンで酔っ払って、これは夢なのだろうか。

「…うそだ」

「ほんとだよ」

 瞳に水分を浮かべたまま、しかめっつらした俺を、樹は愛しいものを見る目で見てく

る。

 樹は重要なことほど、ちゃんとストレートに伝えてくれるやつだ。だからこそ、働いていて楽しかったし、恋人として信頼してた。そして、今野さんは、確かに話を盛る。

「ごめんね。康治が辛い思いしてたこと、気づいてあげられなくて」

「…っ!」

 その言葉で、俺の涙腺は決壊した。本当は樹の隣にいるのは俺がよかった。その気持ちだけで、樹を傷つけた。それなのに、目の前の優しい男は俺を許してくれている。俺だってごめん、その気持ちが溢れて、俺は目の前にある身体に抱きつくしかできない。

「俺も悪かった…。それが、ほんとなら、続き、したい」

 樹の頭をかき抱いて、匂いを嗅いで、発情した犬のように身体を擦り付ける。樹がグッと息をのみ、たまらなくなったかのように、性急に手を伸ばしてくる。

「…セックスが気持ちよくなかったって、ぜったい撤回させるから」

 そこ、根に持ってたんだな。

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くちゃと濡れた音がする俺のそこには、樹の指が三本はいって、ばらばらに気持ちよさを引き出そうと動く。

「...康治、ここ?」

「あ、やだ、やっ」

 樹の指が気持ちいい塊を指で何度もこねる。そこを押されると、触られてもいない前が弾けそうになる。中で気持ちよくなって、腰が跳ねる。

「きもちい?」

 何度も何度も気持ちいいか確かめられて、茹だる頭でちょっと悪いことをしたなと反省する。だって、初めて抱かれたときも、初めてとは思えないくらい気持ちよかったから、よくなかったというのは嘘っぱちなのだ。

「きもちいっ!ァ、いいから、」

「じゃあ、もっと言って。…もっとみだれて」

 樹はそう言いながら、指を抜いて、俺の足を持ち上げて、間に割り込んできた。

 とろけた穴に剛直をあてられて、期待に身体が疼く。

「も、ほしい…!いつき」

「うん、」

 樹がぐっと腰に力を入れて、中に熱いものが深々と入ってきた。樹は、上半身を曲げてくれて、俺は広い背中に抱きついて、全身でくっつく。繋がっているところが、ドロドロに熱い。挿れただけで、気持ちいいところにあたり、中がキュンキュンしているのがわかる。

「ァ、ヤダ、気持ちいい、いつきの」

「…ッ!」

「…ッ!あ!、そこ、だめっ!あぁッ」

 樹はしばらく中が馴染むのを待ってくれたが、待ちきれないようにストロークがはじまった。奥の奥まで犯される快感に頭がうまく回らなくなる。俺はすでに射精したくて、でも樹は二人の体の間に手を差し入れ、俺のものを強く握りしめて離さない。

「や、あ、っ!やめろ、いつきっ!!、も、イキた、い、から」

「じゃあ、また俺とつきあうッ?」

 中の感覚から樹も相当切羽詰まっていることが分かるのに、必死に問われて、可愛すぎて穴がきゅっと反応してしまったのが分かる。樹も締め付けられて、びくりと身体を揺らした。

 

 答えなんて決まってる。けど、今ここでは言いたくない。ちゃんと頭が働いているときに伝えたい。

「あっ…!も、だめ、いつき、イかせてッ!イかせてくれたら、ァ、ちゃんと答えるから」

「…! くそ、なんでかわいいんだよっ!」

「や、ああ、ダメ!!イクっ!」

 樹が一層深く入りこみ、一番奥深くを穿たれながら達した瞬間、奥がぎゅっとひきつれるようにしまるのを感じた。それと同時に、樹が呻き、熱いものが入ってくる。その熱さに酔いながら、樹に顔を寄せて、唇を触れ合わせながら、囁くように伝える。

「ん。いつき、すき。おれ、おまえのこいびとになりたい」

 樹の出したものを自分になじませるように、樹が入った箇所をゆるくしめつけると、樹のものがまた芯を持ち始めた。

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 朝、目が覚めたら、樹の顔が目の前にあった。お互いすっぱだかのままだったが、さっぱりしており、同じくさっぱりした樹に抱きしめられている。

 寝顔が穏やかで、また付き合うことができた幸せをかみしめる。

 合コン開始20分で持ち帰られたけど、恋人になら問題なしだ。

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本堂 康治(ほんどう こうじ) 31歳 無自覚な枕上手

灰谷 樹(はいたに いつき)27歳 受けにメロメロ

初夜編もあげる予定です。

Xやってます!小ネタも呟いていますので、よかったらごフォローいただけると嬉しいです!

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@ichijo_twr

ノートにメモるとノートがどこかへ消えるので、ここにまとめる

痛くて泣いているんじゃない ただ、苦いのが嫌いなだけ

僕があの人のことばかり話すのは、あの人が僕の全てだから

3分にも足りなかった夕陽の色は覚えているのに、ずっと隣にいた僕のことは何も覚えてなかったね

愛を語るには早かったし、恋を知るには遅かった

幸せになってほしいけど、俺と地獄まで堕ちて欲しいとも思う

お前が始めたなら、終わらせるのもお前の役目だ

「ガムラ、お前の嫁だ」

 白銀の毛並みを持つ祖父は、すっかり気に入った日本のキモノを来て、タタミを敷いた客間で、ザブトンの上に座り胡座をかいている。俺が今いる古い日本家屋は、日本での祖父の自宅として、都内の一等地に建てられたものだ。窓から見える色鮮やかな紅葉と広い日本庭園は、ここが都心だと言うことを忘れさせる。久しぶりに会った祖父は眼光が鋭い。ウルフワムの首領の座は数年前に降りたものの、その威圧感は健在であるようだ。

 祖父の横に座り、"嫁"と紹介されたのは、今では珍しい狼獣人の雌だった。淡い薄水色のワンピースに身を包み、少し怯えたように目を伏せている。身体の大きさを見て、まだ成人したばかりなのだと思う。黒々とした毛並みを持っているため、北の方の一族かもしれないと思う。北の方ではまだ雌も産まれると聞いている。

 俺は心の中で溜め息を吐き、この場から早く立ち去れるように言い訳を探し始める。実は、こうやって呼び出されて、番候補を紹介されるのは今日が初めてではない。

 祖父は、数年前に表舞台の役職や官職を全て降り、この屋敷で隠居を始めた。しばらくは大人しくしていたようだが、隠居してしばらく経った後、熱を上げ始めたのが、孫である俺の嫁探しだった。ウルフワムは家族を大事にするため、孫の幸せを願っているがゆえの行動であることは間違いないだろうが、本音は暇で暇でしょうがないから、早く曾孫の面倒を見たいというものだろう。自分の欲望を是が非でも叶えようとするところは、歳をとっても治らないようだ。

 しかし、祖父には悪いが、俺はまだ誰かを番にする気はない。全てを独占したいほどの強い感情を、誰かに抱くということが想像できないからだ。

 狼獣人は、一対の番関係を大切にする。そのため、番の匂いを纏わり付かせている個体は、その個体の番以外から恋愛感情を抱かれることはない。狼獣人は、他の番の匂いを纏っている個体に対して、番対象ではないと本能的に脳が判断してしまうのだ。その本能は、狼の"番を大切にし、独占を欲する本能"に由来する。

 狼獣人は、番が心穏やかで過ごせるよう、悲しまないよう、慈しみ、尽くす。その見返りとして、番の心が誰かに向くことは許せない。そんな業の深い愛着関係を作る。

 俺は、今までの経験から、そんな強い衝動を誰かに対して持てるとは思えない。それに、誰かを番にするというのはとても責任がかかることで、今の俺にとっては負担に思える。この前、共同防衛省の指揮官に任命され、その仕事だけでも山ほどあるのに、番をケアする手間はとてもじゃないが作れない。俺は、番に関することを"手間"だと思ってしまうくらい、まだまだ未熟なのだ。だから、まだ番を探す気にはなれなかった。

「……私には勿体無い方です」

「お前はそう言って、またはぐらかすつもりだろう」

 今日も誤魔化してしまおうと思ったのだが、祖父にはバレているようだ。はあと小さく溜息を吐かれてしまった。

「遊ぶのはお前の自由だ。けれど、家族を持つということも、幸せの一つであることは忘れないでくれ」

 チクリと釘を刺されてしまい、心の中で舌を出す。俺は今は番を作る予定はないが、狼獣人は総じて性欲が強い。だから、番が見つかるまでは匂いをつけないようにコンドームを用いて情交する。番の匂いは身体の奥に放つ精液によって染み込むからだ。なので、もっぱら匂いを放つのは雌の狼獣人、受け入れる側だけだ。ただ、狼獣人が性に奔放なのは、番が見つかるまでの話で、番が見つかれば誰に言われることなく、番にしか目が向かなくなるという。

 俺も誘われればベッドを共にするし、これまで何度か誘いを受けてきた。祖父はそのことを言っているのだろう。しかし、狼獣人や人間に誘われても、匂いをつけたくなるような、心を縛りつけたくなるような相手には会ったことがない。

 祖父は俺の心の内を読んだかのように、この話は終わりだとでもいうように、顔の横で小さく手を振り払う仕草をした。

「……まあ、いい。お前が番に巡り合って、メロメロになった時には、思う存分、笑ってやるわ」

「そんなことが起こるといいのですが」

 俺は祖父の言葉に苦笑しながら、日本家屋を立ち去った。本当にそんなことが起こるとは思えなかったが。

 ※

 

 祖父との会合から約一年後、俺は番の"つ"の字も出ないほど、多忙な生活を送っていた。祖父は、俺の忙しさを察したのか諦めたのか、嫁探しと言って赤坂の自宅に呼び出されることはなくなった。

 俺は、目の前に積まれた書類を片付けるため、共同防衛省の執務室で仕事をしていた。執務室は個室で夜10時を過ぎて、そろそろ帰らなければと思うが、先ほどバロンから渡された資料を見て、思わず眉を顰めてしまう。

 その資料の真ん中には大きな赤字で極秘と書かれている。表紙を捲ると、共同防衛省内にウルフワム打倒連合軍からのスパイが紛れているかもしれないということが事細かに書かれている。

 簡単に言えば、受信先のメールアドレスは分からないが、ウルフワム打倒連合軍から海外のサーバー経由で共同防衛省内部にいる職員と連絡をとっている痕跡が見つかったようだ。

 この資料が正しいとすると、職員達の間で不信感が生まれるし、各職員が閲覧できるデータをかなり制限しなければならないことになるだろう。いきなり見つかった大型爆弾のような問題に思わず唸ってしまう。

 資料を最後まで読んだが、スパイが誰であるか分からない以上、良い対処案は見つからない。休憩室で頭を切り替えて、それでも思いつかないなら、今日は帰ってしまおうと思い、席を立つ。そして、自動販売機と古びた長椅子のある休憩室に行くと、そこには小柄な日本人の職員がいた。

「えっと……、お疲れ様です」

 そう声をかけてきたのは、小柄で華奢な日本人だった。スーツを着ているということは、内勤の職員なのだろうか。さらさらの黒髪と大きな目が彼を幼く見せているが、少しだけ垂れ目なところが色気を感じさせる。小ぶりな唇は吸いつきたくなるほど可愛らしい桜色をしている。狼獣人と比べると身長は小さく、ワイシャツの下の身体を抱きしめる時は壊さないように気をつけなければいけない。

 彼を見た瞬間、抱えていた難題が吹き飛び、鼓動が大きく鳴り出した。彼と一つになって、埋め尽くしたいという欲望に駆られる。彼の瞳に俺が映っていたら安心するし、俺以外が映っていたらそいつを噛み殺してしまうかもしれない。そんな強い衝動と共に俺の胸に湧いたのは、歓喜だった。番を持つ狼獣人が幸せそうな理由がこの時初めて分かった。相手がいるだけで、心が喜ぶのだ。

 彼の名前はヒビキというそうだ。経理部の職員だと言っていた。彼は俺を見てすぐ休憩室から出て行こうとしてしまう。その様子を見て、少し寂しく思いながら、慌てて呼び止める。

「私は総括指揮官のガムラ・ヴィッセルだ。少し話しをしていかないか。入ったばかりの子がこの時間まで残業している理由も気になるから」

 そうして、ヒビキは俺の隣に腰掛けて、私の問いかけに答える形で、ぽつりぽつりと話し始めた。ヒビキは自分から積極的に話す方ではないが、俺が聞くと少し微笑みながら答えてくれる。ヒビキが微笑むだけで、心の奥が温かくなる。少し考えながら話す様子も可愛らしい。部下には簡潔になるべく短く報告するように指示しているが、ヒビキには少しでも長く話していてほしい。彼の甘く高めな声は耳に馴染むし、彼の考えていることは一つ残らず知りたいと思う。

 ヒビキは共同防衛省に入って間もないらしく、業務に慣れていないため、最近残業が続いていると言う。だとすると、夜遅い時間に、共同防衛省から社宅までの暗い道のりを一人で歩いていることになる。危ないことこの上ない。

 課長が指導係ということも気にかかる。ヒビキと課長では経験の量が違いすぎて、指示の内容も上手く伝わっていない可能性がある。

 ヒビキの趣味や休日の過ごし方を聞いていたら、あっという間に時間が経ってしまった。もっと話したい気持ちはあるが、これ以上引き留めてはヒビキの負担になるだろう。そう思い、ヒビキには「遅いから、もう帰った方がいい」と伝えたが、「まだ終わっていない仕事があるので、もう少しだけ残ります」と言われてしまった。

 その言葉から真面目な性格なのだと伝わってきた。だから、くれぐれも無理はして欲しくないと思い、思わず口から言葉が出てくる。

「ヒビキ、私にできることがあれば、いつでも連絡をくれ。君の力になりたいんだ」

 ヒビキは俺の言葉を聞いて、少しだけ俯いて、嬉しさを噛み締めるような顔をした。その顔が可愛くて、俺の胸はまた大きく高鳴る。

 俺はヒビキを経理部まで送り届けてから、自分の執務室に戻ってきた。けれど、先ほどの衝撃の余韻が尾を引いている。愛しくて可愛い俺の番。ヒビキの表情を曇らせるものは、全て取り除いてやりたい。そう思い、経理部の部長にメールを送ることにする。メールには、新人の指導係は年次の近い職員にするように、また若い職員に残業はさせないようにということを書いた。

 そういえば、ヒビキの連絡先を聞くのを忘れてしまった。けれど、共同防衛省は俺のテリトリーだ。次に会えた時に聞けばいい。

 この時はまだ、俺は番を知った喜びに酔うばかりだった。けれど、俺はヒビキがテリトリー内にいることで、油断していたのだ。後日、初めて感じる深い喜びは、彼が俺のものになるという思い違いから生まれていたと知ることになる。

 ※

 俺は、いつもの業務に加えて、ウルフワム打倒連合軍のスパイを見つけるための方策を考えるという追加の業務により、多忙を極めていた。執務室の机の上には書類の山が出来ており、どれだけ処理をしても、新しい山が出来てしまう。落ち着いたら、ヒビキをランチにでも誘ってみようと思っていたのに、なかなか連絡を取れないままだった。彼の顔を見れたなら、疲れなど吹き飛ぶだろうに。

「陸上第三小隊は、大きく迂回して、敵陣を遊撃しろ!」

 今は、共同防衛省の陸海空部隊で行う野外訓練の最中だ。野外訓練は、共同防衛省が開発し設置した東京湾の埋立地にあるジオラマフィールドで行われる。ジオラマフィールドは一種の仮想空間で、様々な環境をリアルな質感で再現できるというものだ。今回は、砂漠地帯での戦闘を模しており、一つの部隊を敵役にして、その敵役が逃亡するところを、残りの部隊で撃退するという流れで進めることになっている。

 俺は、バロンと共に指揮官用の帆幕の中で、フィールド上空に飛ばしているドローンからの映像を見て、指示を出す。

 俺の指示で、陸上部隊が動いていく。俺は、指示を聞いた各小隊の隊長が、隊員達に発する号令を聞くため、無線を調節する。俺の無線機は、全ての隊員の無線に繋がるようになっているため、調整が難しい。隊長達の無線番号を探すために、調節していると、どこかの隊員が無線を切り忘れたのか、雑談のような会話が聞こえてくる。

「なあ、聞いた」

「何が」

 声だけではどの隊員かは分からないが、訓練中に雑談は慎めと注意しようと思い、口を開く。

「経理部のお姫に番が出来たんだとさ」

「えっ!まじかよ」

 しかし、隊員達の会話の内容が耳に入り、注意しようと思った口が瞬時に閉じる。会話の内容に集中するため、俺の耳がぴんと立ったことが分かる。

 名も知れぬ隊員の言葉から、ある経理部の職員に番ができたのだと知る。そのことを理解できた瞬間、心臓が嫌な音を立てて鳴り始める。まさか、そんな訳がない。経理部の職員は、20名ほどいたはずだ。番が出来たという職員がヒビキだと決まったわけではない。それなのに、なぜか勝手に毛が逆立ち、身体が臨戦態勢に入ったことが分かる。

「な。ショックだろ。相手は、同じ経理部の日本人だってよ。ヒビキくんは、狼獣人が話しかけるとビビっちまうから、みんな様子見してたのにな。可愛い子はすぐに掻っ攫われちまう」

「そんな……。俺の癒し、ヒビキちゃん……」

 その言葉を聞いた時、思考が停止した。無線の先にいる隊員達の言葉を、心が拒否をする。俺は、あまりの衝撃に固まってしまい、それを不審に思ったバロンが横から話しかけてくる。バロンは別の無線に繋いでいたようで、先ほどの隊員の声を聞いてはいない。

「ガムラ。隊長達が次の指示を待ってる」

「……」

 動かない俺を見て、バロンが訝しむ。

「おい、ガムラ」

 俺は、頭が真っ白になり、出すはずだった指示の内容がが頭の中からどこかへ飛んでいってしまった。心が赤信号を出していることが分かり、バロンにSOSを出す。

「……指揮を代わってくれ」

「……分かった。体調が悪いなら、早めに言えよ」

 バロンは、様子のおかしい俺を見て、体調不良だと思ったようだ。すんなりと指揮を代わってくれ、隊長達に指示を出す。野外訓練は、バロンの指示により滞りなく進んでいったが、俺は椅子に座り、呆然とするばかりだった。

「腹でも痛かったのか」

 野外訓練はいつの間にか終わったようで、バロンが無線を外しながら、話しかけてきた。

「……」

 俺は何を言えばいいのか分からず、黙っていた。バロンは、いよいよ俺に何かあったと思ったのか、隣の椅子に座り、俺を心配そうに見やる。

「本当に何があったんだ」

 幼い頃からウルフワムの野原を一緒にかけていた友人が不安げに聞いてくる様子を見て、俺は思わず本音を溢してしまった。

「……番がいる人間を、奪い取るにはどうすればいい」

「は?」

 バロンは呆気に取られたように聞き返してくる。俺は、ヒビキに会ったこと、そして一目見て番にしたいと思ったこと、そのヒビキが他の番を作ってしまったかもしれないことをバロンに打ち明けた。

「あー……」

 バロンは俺の話を聞いて、少しだけ考え込み、気まずそうに話し出す。

「そりゃ、今はショックだよな。だけど、俺ら狼獣人は、番のいる個体は本能的に好きにならない。番のいる個体を取り合うことは、争いの種になるからだ。だから、そのヒビキから他のやつの匂いがしてたら、ガムラの熱も冷めるんじゃないか、って俺を威嚇するなよ」

 バロンの話を聞いて、思わず、俺以外の匂いを纏っているヒビキを想像してしまい、その不快感に牙を出し、喉が震える。

 確かに、理性的に考えるならば、バロンの言う通りだ。しかし、ヒビキから俺以外の奴の匂いがしていたらと考えるだけで、そいつの喉元を掻っ切って、ヒビキを攫っていくという想像が容易に出来る。そして、俺の匂いがつくまでヒビキを抱くだろう。

 狼獣人は、番のいる個体を好きにならない。けれど、俺以外の奴の匂いを纏っているヒビキに会ったら、俺は彼への思いを消すどころか、ヒビキの意思を聞かずに暴走してしまいそうだ。

 

「お前が気にしているのが誰は知らないが、他の誰かと番になったなら、お前の熱はいつか冷めるさ。お前は想われる方に慣れすぎだ。想う方の気持ちが分かるいい機会じゃないか」

 バロンはそう言って、ジオラマフィールドの帆幕から出ていった。他人事だと思って、気楽に言ってくれる。俺は小さく息を吐き、椅子にもたれた。

 確かに、先ほどの隊員は"ヒビキ"に番が出来たと言っていただけで、経理部の"ヒビキ"は他にもいるかもしれない。その真偽を確かめるには、ヒビキに会って匂いを嗅ぐしかない。

 それは分かっているが、ヒビキが他の奴の匂いをさせていたら、何をするか分からない。バロンの言うとおり、この気持ちが無くなるだけかもしれないが、最悪の場合、ヒビキを害してしまうだろう。

 誰よりも大切にしたいと思ったはずなのに、俺のものにならないのなら、傷つけてでも縛りたいと思う。

 初めて抱いた身勝手な思考に驚く。俺は、狼獣人の中でも強い。強くあるよう育てられてきたからだ。だから、自分の力を振りかざし、理由なく誰かを傷つけることは悪だと教わってきた。そして、それは自分への戒めともなった。

 しかし、ヒビキに関することだけは、今までの自分が覆される。あの休憩室のひと時を過ごしただけなのに、俺の心は根こそぎ奪われてしまったようだ。見た目や性格に惹かれたのもあるが、俺が声をかけた時に見せた寂しさを隠すような微笑みを見て、どうしても自分の手で幸せにしたいと感じたのだ。

 狼獣人は、番を求める生き物だ。番という守るべき存在が出来て初めて、欠けていた部分が埋まり、完全体になると言ってもいいかもしれない。ヒビキに会ったことで、俺は自分が欠けていたことを自覚した。その上で、俺の本能は、ヒビキを番だと認めてしまった。そんな唯一無二の存在が手に入らないなら、奪ってしまえと心が囁く。

 これまでは知らなかった暴虐的な自分の一面に嫌気がさし、俺は帆幕の中で苦々しい気持ちを噛み潰していた。

 そして、ヒビキに会う決心がつかないまま、時間だけが過ぎていった。会うことが出来ない代わりに、情報を集めた。ヒビキに番が出来たということは、省内で話題になっており、情報を集めるのに苦労はなかった。そうして、やはり番が出来た経理部のヒビキは、俺が休憩室で会ったあのヒビキだと分かった。

 番の名前は、アカツキ・タマルと言うそうだ。経理の資格を有しており、これまでの人事評価では実務能力は飛び抜けて高いとされている。職員ファイルに載っている写真を見ると、フレームの太い眼鏡と重たい前髪が印象的で、顔全体の雰囲気が掴みづらい。すれ違っても覚えづらい顔とでも言うのだろうか。ヒビキの番だから、俺の偏見があることを踏まえても、いけすかない男だと思った。この男がヒビキを好きにできるのだと思うと、噛み殺したくなる。

 タマルは、ヒビキの教育係を務めており、そのことがきっかけで二人は結びついたのだそうだ。おそらく、タマルが教育係になったのは、俺が経理部長に送ったメールがきっかけだろう。ということは、俺が二人を結びつけてしまったことになる。嘆いてもどうしようも無いが、この時ばかりは絶望で気が遠くなった。

 そうして、番が出来た"ヒビキ"が、あのヒビキだと結論づけてから、俺は気持ちのやり場を見つけられないままだった。

 どうしようもない悲しみを抱えながら、ようやく一週間の仕事が片付いた金曜日の夜に、バロンを呼び出して、共同防衛省近くの居酒屋へ向かった。酒で誤魔化せるとは思えないが、一人でいるとヒビキの元へ向かってしまうかもしれない。

 赤提灯を吊るした和風の居酒屋に二人で入り、暗い気持ちで、焼酎のストレートを飲み干すと、バロンが呆れたように呟く。

「俺の歓迎会でもしてくれるのかと思えば、傷心のお前を慰める会かよ……」

 バロンは、俺とヒビキが出会う少し前、共同防衛省に異動してきた。役職は指揮官補佐で、俺の執務室の横に部屋がある。

 それまでは、持ち前のハッキング技術を活かして、情報セキュリティ庁の高官をしていた。本人も情報セキュリティ庁の仕事を楽しんでいるようだったので、最初は意外な人事だと思った。しかし、異動してきてすぐ、ウルフワム打倒連合軍のスパイ疑惑をあぶり出したことから、このために異動して来たのかと納得した。内閣かどこかの狼獣人が勘づいたのだろう。もしかしたら、前首相である祖父もどこかで絡んでいるのかもしれない。俺のテリトリー内で起こっていることを把握しきれておらず、そのことも不甲斐なく感じる。俺は、若くして共同防衛省の指揮官に着任したことにかまけて、自分の能力を過信しすぎていたのだろう。不甲斐ないことばかりだ。そのこともあいまって、俺の心にわだかまるもやもやをバロンに打ち明ける。

「俺の想い人、ヒビキには番がいる。……アカツキ・タマルと言うそうだ」

「アカツキ・タマルだと?」

 バロンは、なぜかタマルの名前に反応している。俺は焼酎の飲み干して、話し続ける。

「ヒビキにタマルの匂いがついていたら、俺はヒビキの意思に関係なく、抱き潰してしまうかもしれない」

「ガムラ。アカツキ・タマルは、例の件で一番疑惑が濃厚だ」

 バロンが何か言っているが、俺は自分のことで手一杯だった。

「日本人は貞節を重んじるというし、まだ匂いがついていない可能性もある。そうだとしたら尚更、ヒビキを襲ってしまいそうだ。俺はどうすればいい」

 度数の高い焼酎が喉を通り、胃に入っていく。酔って全てを忘れてたいと思う。自分がこんなに情けない狼だったとは初めて知った。

「おい、聞けよ。仕事の話だ」

 そんな俺を見て、バロンが冷静な様子で話し出す。俺はようやくバロンの話が耳に入ってきた。

「……何がだ?」

「アカツキ・タマルは、ウルフワム打倒連合軍からスパイである可能性が高い」

 衝撃の事実が耳に入り、思わず声を潜めて、続きを促す。

「……本当なのか。ソースは」

「まず、アカツキ・タマルは経歴が怪しい。部下に、直近五年未満の新入職員の経歴を調べさせたところ、正規の採用ルートで入ってないのはタマルだけだった」

「なんだと。うちに入るには、基本的に人事による面接が必要だ。だったら、どうやって入省した」

「タマルが共同防衛省に就職したきっかけは、当時の総務大臣のコネらしい。総務大臣の名前が入った紹介状みたいなものを人事に見せて、そのまま入省が決まった。だが、裏どりしたところ、大臣はそんな紙は書いていないと言っている。まぁ、政治家なんて、親戚の親戚みたいな関係の奴に安請け合いして、忘れているだけの可能性もあるけどな」

「……」

 俺は顎に手を当てて考える。タマルが入省したのは、俺が着任する少し前だ。俺が指揮官であれば、そんな怪しい奴は自分で面接しただろう。

「それに、今日やっと分かったんだが、タマルが使っているパソコンから、珍しい型のウイルスが発見された。そのウイルスは、日本にまだ上陸していないやつで、よほどのマニアじゃないとウイルスがどうかも分からないものだ。そのウイルスは、ハッキングの痕跡を消す特徴を持っている。タマルが共同防衛省のデータにアクセスし、その痕跡を消すために使った可能性が高い。その二つの事情だけでも、アカツキ・タマルは黒に近いグレーだと言える」

「……より確実な証拠はあるのか。紹介元の総務大臣は、総選挙の時には票欲しさに悪どいこともやっていたという噂がある。タマルの紹介状にやましいことがあるなら口を割ることはないだろう。それに、ウイルスは、タマルのパソコンが他の人間に使われていた可能性もある」

「確かに、現時点では、タマルを黒だとは言い切れない。だから、この件は慎重に進めていく必要がある。タマルをはっていれば、ウルフワム打倒連合軍の本拠地を叩くことも可能かもしれない」

「……ああ」

「だからこそ、そのヒビキくんのことも警戒した方がいい」

「なんだと。ヒビキがウルフワム打倒連合軍のメンバーだとでもいうのか」

 タマルがグレーだということは分かったので、もう少し調べてみることには賛成だ。そう思っていたら、ヒビキの名前が出たので思わず聞き返す。

「違う。馬鹿、唸るなよ。お前も知っていると思うが、ウルフワム打倒連合軍は、洗脳術を使う。やり方はよく分かっていないが、洗脳された人間は自分が洗脳されたということに気づかないまま、ウルフワム打倒連合軍の指示通りに動く。こちらからしたら、人の形をした爆弾みたいなものだ。それに、お前はヒビキくんに惚れてるだろう。それを利用される可能性もある。とりあえず、今はヒビキくんには会うな。」

 そこまで聞いて、タマルのそばにいるということは、ヒビキにも危険が及ぶかもしれないということに気づく。ヒビキの身の安全が一番大事だ。俺が見守れることが一番良いが、今の俺ではヒビキに会い、平常心を保てる自信はなく、祖父のSPを一人貸してもらおうと決めた。 

 ※

 バロンと居酒屋で飲んだ次の日、俺は、机に積まれたファイルの中から一枚の紙が出ているのに気がついた。その紙を手に取って見てみると、昨年度の領収書であることに気がつく。そういえば、今日は昨年度の経費精算の締め日だったはずだ。今朝、経理部の部長から全職員宛に、昨年度の領収書があれば、今日中に経理部に持ってきて欲しいとメールが届いていた。

 タイミングが良いのか悪いのか分からず、その領収書を手に取り、悩む。経理部に行けば、ヒビキの顔を見ることになる。俺はまだヒビキに会って良いのか悩んでいるし、バロンから会うなと言われている。

 けれど、昨日の夜、タマルがウルフワム打倒連合軍のスパイである可能性があると聞いて、ヒビキは洗脳されてタマルと交際するふりをしているのではないかという、意地の悪い思考が頭から離れない。

 そんな弱々しい一縷の望みが出てきてしまったために、俺は偶然見つけた領収書を言い訳にして、経理部へ足を運んでいた。ヒビキに会いたいのか、それとも会いたくないのか。自分の思考なのに、はっきりと分からないまま、経理部のフロアに着いた。

 中途半端な気持ちは、彼の後ろ姿を見た瞬間、姿を見れた喜びで胸がいっぱいになった。久しぶりに会えて心が喜ぶ。

 フロアの入り口に佇み、ヒビキの後ろ姿を見ていると、彼が横に置いてある資料を見出したので、横顔が見えた。

 久しぶりに見たヒビキは、窶れてしまったように見える。横顔のため片目しか見えないが、目の下に隠しきれないクマが出来ているし、少しだけ痩せたようにも見える。経理部は、前より残業は減ったと聞いているから、仕事で窶れた可能性は低い。

 タマルは、そんなヒビキを見ても何も思わないのか、ヒビキの隣りの席で普通に仕事を続けている。番すら大切に出来ない男なのに、ヒビキの隣りにいて良いと思っているのか。嫉妬と怒りで手元の領収書を握りしめる。

 そうして。ヒビキを見ていたが、あるものを見た時に、自分の視力が2.5あることを後悔した。ヒビキの左手に、きらりと光るものが付いているのが見えたからだ。ヒビキの左手の薬指には、銀色のシンプルな指輪がはまっていた。同じものが、タマルの左手にも付いているのも見えた。お揃いの銀の指輪は、日本人の番同士が身につけるものだと知っている。つまり。彼がタマルの番であることを示すものだ。それを見た瞬間、心から血が噴き出したように痛んだ。

 思わず眉間に皺が寄り、喉が低く鳴る。このままだと、まずい。そう思った瞬間、何かを感じ取ったのか、ヒビキがこちらを振り向き、用事を尋ねにやって来る。

「ヴィ、ヴィッセル指揮官。何か御用でしょうか?」

「今日が経費の締め日だと聞いて、慌てて持ってきた。まだ間に合うか」

 俺はヒビキに襲いかかりたくなるのを必死に堪えて、物分かりの良い上司のふりをする。

 そんな指輪、外してしまえ。俺がヒビキだけの首輪を用意してやる。そんな凶暴な俺が顔を出しそうになる。

 領収書を渡す時にも、銀色の指輪が目に入り、頭に血が上る。危険を感じた俺は、ヒビキに領収書を手渡して、すぐに踵を返す。そうでなければ、ヒビキを襲ってしまうだろう。

 足早に執務室に戻り、扉に鍵を閉め、掌で目元を覆い、深く息を吐く。やはりまだ会うべきではなかったのかもしれない。彼の指に番の証があるだけで、こんなにも凶悪な気持ちになってしまうのだから。

 気持ちを沈めるために深呼吸を繰り返す。そうしていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。少し落ち着いた頭で、先ほど見たヒビキの顔を思い返す。ヒビキの顔を思い出した瞬間、彼の匂いも想起される。その時ふと、ヒビキの匂いに他の匂いが混ざっていなかったような気がして、一瞬前の記憶を掘り起こす。確かに、ヒビキがつけている指輪を見て興奮したのは確かだが、ヒビキの匂いには何の違和感もなかった。休憩室で嗅いだ時と同じ穏やかで心が落ち着く匂いだったような気がする。

 ということは、ヒビキとタマルはまだ身体を繋げていないのだろうか。それとも、俺の憶測の通り、ヒビキとタマルは付き合っているふりをしているだけなのだろうか。そうであるなら、タマルの事情を明るみにすれば、二人の仲を引き裂けるかもしれないと思い始める。

 俺は執念深い狼の本能を感じながら、出てきた一縷の望みにかけて、タマルの素性を徹底的に暴くことにした。

 

 普段の業務に加えて、タマルのことを調べていると、手がいくつあっても足りないくらい忙しい。

 忙しいながらも調べていくうちに、ウルフワム打倒連合軍は単なるテロ組織ではなく、様々な業界のプロが集まる危険な集団だと言うことが分かってきた。

 特に、洗脳術については、これまでの犯罪の手口から、常套手段として使われていることが分かった。罪のない一般市民を自分達の駒として使い、犯罪を行なっているのだ。

 洗脳のやり方については、詳しい資料がない。現時点で分かっていることは、バロンの言う通り、洗脳された本人は、ウルフワム打倒連合軍の指示であるにもかかわらず、自分の意志で動いているように感じるということだ。

 また、洗脳できる人とできない人がいるということも分かった。洗脳できるかできないかは、洗脳のかかりやすさの問題ではなく、本人の素因に関係している可能性が高いのだという。

 そして、ウルフワム打倒連合軍の洗脳は強度なものであるため、長期間にわたり洗脳されたままだと、必ず強い頭痛に襲われるのだそうだ。そうなると、洗脳されていることが客観的に判断できる要素は頭痛しかないことになる。

 俺が鬼気迫る様子で仕事をしていると、突然、個人のスマホから音が鳴った。ディスプレイに映し出された番号を確認すると、マンションの管理会社からだったので、通話を始める。

 電話口の担当者はどこか慌てた様子で、話し出した。伝えられたのは、気の滅入るようなトラブルだった。担当者から事情を聞いた俺は電話を切り、溜め息を一度だけついてから、執務室を出て、横の部屋にいるバロンのところへ向かう。

「バロン。いるか」

「どうした」

 バロンは、俺の執務室と違い、机の上に沢山のモニターを置いている。俺の呼びかけに対して、どうしたとは言いつつも、キーボードを叩く音は止まらない。

「さっき、俺のマンションの管理会社から電話が来た。部屋の水道が壊れて、部屋全体が水没したらしい。改修するから、しばらく住めないと言われた。管理会社も代わりのマンションを見つけられていないらしく、少なくとも今日は、自分で泊まるところを見つけてくれと言われた」

「そりゃ災難だな」

 バロンは、俺の話を聞きながらもタイピングを続けている。

「それで、今日泊まるためのホテルを調べたんだが、明日開催される国際サミットで、都内のホテルはどこも満室のようだ。だから、今晩だけでいいから、お前のところに泊めてくれないか」

 そこまで言って、ようやくタイピング音が止まる。そして、バロンがモニターの隙間から、顔を出した。

「は?無理に決まってる。俺の家には愛しい番がいるんだぞ。お前を入れられるわけないだろう」

 そして、瞬時に却下された。番ができた狼獣人は、他人にプライベートを踏み込ませない。家族は各々のテリトリーになるからだ。そして、バロンは、最近番を得たばかりなので、縄張り意識が一番強い時だ。

 ダメ元で聞いてみたので、拒否されることは予想はついていたが、自分の恋が上手くいっていない俺は疲れもあり、少しだけ苛ついてしまう。

「毛を逆立たせるな。分かったよ。社宅なら空きがあるんじゃないか。今、少し調べてみるから待ってろ」

 バロンは俺の苛立ちを察して、すぐに別案を出してくれる。

「悪い。頼む」

 俺は大人気ない自分の反応を恥じて、バロンの執務室に置かれている丸椅子に座る。

 バロンはカタカタとキーボードを叩き、社宅のデータにアクセスしているようだ。社宅関連は人事しか見れなかったような気がするが、バロンにとっては内部セキュリティなど無いも等しいのだろう。

「社宅関連はこのファイルだな。……へえ、そうか」

 バロンは何かを見て、意外なものを見たように目を瞬かせる。俺が疑問に思う前に、バロンは全てを終えていた。そして、この後のことを俺に教えてくれる。

「社宅はどうやら人気のようで、空いている部屋は一つしかなかった」

「そうか」

 社宅が人気だということは知らなかった。そうであるなら、増築も検討するべきだろうか。

「人気なのは今だけだから、増築とかは考えるなよ。それで、お前のマンションが改修されるまで泊まれるように手配した。最低限の備え付けの家具はあるから、寝泊まりは出来るだろう。後で、人事から社宅の鍵を届けさせる。そこに部屋番号は書いてある」

「仕事が早いな。恩にきる」

 思考を先読みされてしまったが、手際よく今後の流れを説明してもらい、ひとまず安心する。どこも見つからないようであれば、執務室の床で寝ようと考えていたから、はるかに良い寝床を確保できた。

「幸運を祈ってるよ」

 バロンに礼を言うと、よく分からないことを言ってきた。それには深く言及せずに、バロンの執務室を出る。

 それから一時間ほどすると、人事から鍵が届いた。鍵には小さくアルファベットと数字が書いてある。これが、バロンが手配してくれた部屋番号だろう。

 仕事を終えて、部屋番号がある棟を確かめながら、社宅にやって来た。俺はこれまで社宅に住んだことはないため、初めて足を運ぶ。夜なのではっきりとは見えないが、クリーム色の外装はところどころ煤けている。

 そして、部屋番号が書かれた銀色のプレートを見つけた。鍵を差し込み、古めかしい深緑色の扉を開こうとした瞬間、右側のふたつ隣にある部屋の扉が開いた音が聞こえて、思わず音のした方を見る。すると、そこには、とても驚いた様子でこちらを見るヒビキがいた。

「ヴィッセル指揮官……っ!どうしてこのフロアに?」

 その驚いた顔を見て、バロンに仕組まれたのだと察した。

「ヒビキ?!……っくそ、バロンめ」

 思わず悪態をついてしまう。バロンはヒビキがこのフロアに住んでいることを知って、あえてこの部屋を用意したのだろう。今は近寄らないほうが良いと言っていたのに、どうしてだと混乱する中、ヒビキが話しかけてくる。

「ど、どうかされましたか?」

「いや、ヒビキはこの部屋の隣に住んでいるのか?」

 俺は混乱を隠し、ヒビキに尋ねる。今出てきた部屋から、俺の右隣の部屋に入ろうとしていたところを見ると、そこがヒビキの部屋なのかもしれない。

「はい。入省してからずっとこの部屋です」

 よく見ると、ヒビキは私服のようだ。大きめのTシャツを着る姿が可愛らしくて、胸が高鳴る。

「そうか……」

「あ、あの、ヴィッセル指揮官はなぜここにいらっしゃるんですか?ここは若手のフロアです」

 ヒビキはまだ混乱しているようだ。俺は素直に事情を打ち明ける。

「俺が住んでいるマンションが改装することになって、その間の仮住まいだ。自分で探す暇がなくて、バロンに頼んでいたんだが、空いている部屋がここしかないと言われてな」

「そ、うですか……」

 俺達が立ちすくんでいると、ヒビキの後ろからタマルの声が聞こえた。今し方、ヒビキが出てきた扉から、タマルが顔を出した。

「ヒビキ、うちにコーラがあるぞ……って、ああ、指揮官じゃないですか」

「タマル」

 タマルと話すのはこれが初めてだ。それなのに、タマルは俺を見て勝ち誇ったように笑う。それが無性に腹立たしく、腹に力をこめて感情を抑える。

「君達の部屋は隣同士なのか」

「そうですよ。恋人同士なのでとても助かってます」

 "恋人同士"をわざと強調して伝えてくるところを見ると、タマルは俺がヒビキに懸想していることを知っているのかもしれない。敵を噛みちぎり、屠ってしまいたい。そんなどす黒い感情に引き摺られそうになるが、必死に耐える。

「……そうか。休みだからといって羽目を外しすぎないように」

「あ、はい」

 最後は余裕がなくなり、そっけない言い方をして、俺は自分の部屋に入った。

 タマルもいることは腹立たしいが、隣の部屋にヒビキがいると思うと、落ち着かない気持ちになる。気持ちを沈めるため、最低限しかない殺風景な部屋の中で、腕立て伏せを延々と繰り返していた。

 翌朝、バロンの執務室に行き、 問答無用で詰めよる。俺とバロンは終わらない仕事を抱え、土曜日にも関わらず出勤していたから、周りに他の職員はいない。

「バロン。お前、仕組んだだろう」

 低い唸り声と共に、バロンに訴える。腕立て伏せをやり過ぎたせいで寝不足気味のため、自然と機嫌が悪くなる。

「会えたのか。よかったな」

 バロンはコーヒーに口をつけながら、俺の怒りはどこ吹く風だ。その様子を見て、全て知っていて、あえてあの部屋を手配したのだと確信する。

「よかったなじゃない。お前は、俺にヒビキとは会わない方がいいと言っていただろう。どうして余計なことをする」

「俺が本気を出して調べても、アカツキ・タマルは尻尾を掴ませない。認めるのは癪だが、ウルフワム打倒連合軍にも頭の切れるハッカーがいるんだろう」

「それがどうした」

「このままイタチごっこを続けても、ウルフワム打倒連合軍の本丸には近づけない。それに、アカツキ・タマルが黒だった場合、このままだと急に行方を眩ませる可能性もある。そうすると、これまでやってきたウルフワム打倒連合軍に関する調査が全て白紙に戻る。それだけは避けたい。だから、お前という囮を用意して、向こうからボロを出すように仕向ける作戦に変える。人は予想外のことが起きた時、ボロを出しやすいからな」

「……」

 ウルフワム打倒連合軍が難攻不落であることは、俺が調べただけでも分かった。しかし、このまま世間にのさばらせておけば被害者は増える一方だ。

 バロンは、ウルフワム打倒連合軍を一網打尽に出来る機会が見つからず、手をこまねくしか出来ず、かなり焦れていたのだろう。タマルを逃せば、これまでにないチャンスをふいにすることは俺でも分かる。

「タマルはお前が近くに越して来たことで、内心はかなり動揺しているだろう。どういう形かは分からないが、じきに尻尾を出す。その瞬間に首元を掻っ切れば良い」

 俺は、優秀なハンターである親友を見て、黙ることしか出来なかった。

 

 バロンの理屈は分かるが、もしヒビキとタマルが仲良さげに話している声や喘ぎ声が聞こえてきたら、俺はどうなるか分からない。

 なので、しばらくは忙しさを理由に、誰もが寝静まった夜更けまで仕事をして、帰るようにしていた。けれど、そんな生活をいつまでも続けていられるわけはなく、俺はしばらくぶりに日付が変わる前に社宅に帰ることにした。

 玄関を開けると、前と同じ殺風景な部屋が俺を出迎えた。夕飯は食べてきたので、シャワーを浴びて寝てしまおうと、隊服のボタンを外しかけた時、インターフォンが鳴った。

 そして、扉の外から控えめな声が聞こえた時、俺は耳を疑った。

「ヴィッセル指揮官、すみません。ヒビキ・ホンマです。いらっしゃるようでしたら、いま少しお時間いただけないでしょうか」

「ヒビキ……?……少し待っていろ」

 俺の耳が可笑しくなり、ついに幻聴が聞こえ始めたのかと思ったが、扉を開けると、ヒビキが立っていた。仕事から帰って来たばかりなのか、ワイシャツ姿だ。

「いきなりどうした。仕事のことか」

 突然の訪問に戸惑う。何か困っていることがあったのかと思い、尋ねる。

「い、いえ……」

 そうすると、ヒビキは何かに怯えるように首をすくめる。よく見ると、目の下のクマはますます酷くなっており、顔色も悪い。その様子を見て、もしかしてウルフワム打倒連合軍の洗脳下にあるかと勘繰る。しかし、真実は分からない。もし洗脳されていたとしても、ヒビキにも分からないのだから。

 それに、もし洗脳されていないとしたら、こんな状態の番をケアしないなんて、タマルは何を考えているのかと苛つく。名前を出すのも癪だが、ヒビキに問う。

「……タマルはどうした」

「え?ア、アカツキ、は……あの……」

 言い淀むヒビキに、部屋の中に入るように言う。部屋に入ってきても、まごついたままのヒビキは突如、一粒の涙を溢した。

「っすみません」

 その雫がまろい頬を伝う。少し赤く色づいた頬は、柔らかそうで、思わず喰みたくなる。俺はその衝動を堪えて、少しでも落ち着くようにわ背中を撫でる。そうすると、ヒビキは少しだけ落ち着いた様子で、話し出した。

「す、すみません……。僕、彼の気持ちが分からなくて……。頭の中がぐちゃぐちゃで……。僕、どうしたらいいのか……」

 ヒビキはかなり混乱しているようだ。"彼の気持ち"と言うことはタマルのことを指しているのだろう。俺以外の誰かを想い泣くヒビキを見て、胸が締め付けられる。

「……タマルが浮気でもしたのか?」

 断腸の思いでそう聞いた瞬間、胸に愛しい存在が飛び込んできた。俺の心臓は大きく跳ねると同時に、心の中の僅かに残っていた理性が消え去った。

 初めて会った日から運命として決まっていたとおり、この番を奪い取り、必ず俺のものにする。しばらくは前の番を想って、泣いて悲しむかもしれないが、俺の全てをかけて守り、愛しもう。

 ヒビキが俺の元にやって来た理由は分からない。けれど、洗脳であれ、タマルの浮気のせいであれ、この手に堕ちてきた愛しい番をもう二度と逃すつもりはなかった。

「僕、じゃだめですか?」

 ヒビキは、俺の中に生まれた獰猛な獣を知らずに、可愛らしいことを尋ねてくる。

「僕、寂しくて……だから」

「……君達の関係がどうなっているのか分からないが、ヒビキが望むのなら、俺が側にいよう」

「……ほんと、ですか」

「ただし、タマルとの仲が戻るまでだ。それでもいいか」

「……はい」

 タマルが戻って来たとしても、もう手放す気はない。俺は少しも思っていない戯言を吐いて、ヒビキを安心させる。ヒビキは少しだけ安心したように息を吐いた。こんな些細な演技でヒビキなら心が入るなら安いものだ。

 それから、俺は、タマルの不在を埋めるために、ヒビキの側にいることになった。側から見れば、俺は都合よく扱われているように見えるかもしれない。

 ヒビキに近づくため、あえて小さなソファを選んだりもした。そのソファでヒビキと触れ合いながら映画を観たが、横にいるヒビキが可愛くて内容は全然見ていなかった。

 初めてキスをした時には、ヒビキが可愛すぎて、夢中になってしまった。初めてと言われて、ますます興奮してしまった。

 思いが高まるにつれて、ヒビキの薬指についた指輪が忌々しく思えた。二回目のキスをした際に、左手の薬指に嵌まった指輪をするりと抜いて、ヒビキには分からないように力に任せて握り込んだ。そうすると、銀色の指輪は瞬く間に、掌の中で金属の屑になった。

 ヒビキは指輪を無くしたことを悲しむかもしれないが、俺が首輪を用意しよう。これは俺の番だ。

 

 

――ガムラさん、いえ、ヴィッセル指揮官。今日は僕達の結婚式に来ていただいて、ありがとうございます。

――ヒビキ?

 目を開けて、まず最初に見えたのは、真っ白なタキシードに身を包んだヒビキだった。そして、ヒビキの隣には同じようなタキシードを着た男が立っている。その男の顔はなぜか雲がかかったように鮮明でない。その顔の見えない男は、ヒビキの腰を抱くように腕を回している。その光景に苛立った俺は、思わずその腕を外そうとするが、その時はじめて身体が動かないことに気がつく。

――いままでお世話になりました。僕達、幸せになります。

 パニックになる俺を無視して、ヒビキは隣に立つ男の方を向きながら微笑む。その笑顔が本当に幸せそうで、焦る。その笑顔は俺に向けられるはずものだ。なぜそんな男に見せるのか。そして、ヒビキから俺以外の匂いがすることに気がつく。あれだけ深く匂いをつけたのにどういうことだ。

――ま、待て。なぜお前は俺以外の匂いをつけているんだ。

――何を言っているんですか。僕はガムラさんの匂いなんて知りません。だって、僕は彼のものですから。

 思わずヒビキに尋ねる俺を、ヒビキは冷たい目で見て、横に立つ男の腕にしなだれかかる。もしかして、そんな馬鹿なことがあるか。ヒビキと番になれたというのは、全て夢だったなんて。

――なっ!ま、待て!ヒビキ!!

 夢の中で絶叫した瞬間、身体が動くようになった。じっとりの冷や汗をかいた俺の目の前には、見慣れたマンションの天井が映っていた。

 そして、少し横を見ると、俺の腕を枕にして穏やかに眠るヒビキがいた。俺は数回深呼吸をして、ようやく先ほどの光景が夢だったことを知る。

 ベッドも脇にあるデジタル時計を見て、既に夜中の1時であることが分かる。そこまで意識が覚醒して、酷い悪夢を見た理由が分かった。ヒビキがタキシードを着ていたのは、明日、いや今日が俺とヒビキの結婚式だからだろう。

 俺とヒビキは紆余曲折を経て、思いを通じ合った後、すぐにパートナー届を出した。俺が一刻も早くヒビキの番であるという証明が欲しかったからだ。その後すぐ、ヒビキが俺の子を身ごもっていることが分かった。祖父やバロンには説教されたが、ヒビキは家族が増えることを喜んでくれた。

 そして、祖父の強い勧めで結婚式を行うことになった。孫の門出を祝いたいのだと思う。それが明日執り行われる。近親者だけのこぢんまりとしたものだが、俺はとても楽しみにしている。

 そのはずだった。けれど、先ほど見た夢のせいで、俺はまだヒビキが誰かに奪われる不安を拭いされていないのかもしれないと思う。どれだけ俺の匂いをつけても、魅力的な番が誰かに掻っ攫われるかもしれないと深層心理で感じているのだろうか。

 俺はやけにリアルだった夢を忘れるため、横で眠るヒビキに口付ける。意識がないヒビキの舌に、性急に自身の舌を絡める。甘い口内をまさぐり、舌を吸う。

「んんっ……ふあ……」

 ヒビキが息を漏らした。その甘い声に興奮が煽られていくのが分かる。何度貪っても飽きることのない甘露を味わう。

 そして、そっとヒビキの体に手を伸ばす。横向きで寝ているヒビキのパジャマの上から、胸を触る。何度も触れたそこは、どこに乳首があるか分かるようになった。まだ柔らかいそこを親指と人差し指で捏ねる。

「ん、んっ……」

 そうすると、ヒビキの眉がぴくりと動く。しかし、まだ起きる気配はない。乳首は徐々に芯を持ち始め、パジャマの上から尖りが分かるほどになってきた。

「ヒビキ」

 俺は熱の篭り始めた声で、ヒビキを呼ぶが、まだ眠りの世界にいるため、反応がない。そのままゆっくりと服の中に手を入れ、直に突起に触れる。

「はぁ……ん、ん……」

 ヒビキは小さく喘いだ。起きたかと思ったが、まだ目は開かない。俺はもはや止められず、ヒビキの下肢に手を伸ばす。そこは可愛らしいものがゆるく立ち上がっていた。

 俺は、俺とヒビキのズボンを降ろして、二つまとめて扱く。

「あ、あ、や、ガムラさん……?」

「やっと起きてくれたな」

 そこでやっと異変に気づいたヒビキが目を覚ます。俺はヒビキを仰向けにして、二人のものを扱きながら、ヒビキの股を広げ、後孔に触れた。

 妊娠してからヒビキの後孔は、出産に適合するかのように柔らかくなっている。医師にもお互いの気持ちが高まった時であれば身体を繋げてよいと言われている。

 少しだけ愛液が溢れるようになった後孔に人差し指を入れると、そこは熱く、指を引き込むような動きをする。

「なにして、んんっ、そこはっ、だ、めぇっ」

「ヒビキ。中に入らせてくれ。お前の奥に出したいんだ」

 ヒビキの後孔のいやらしい動きに興奮した俺はそう言いながら、中指を増やし、ヒビキのしこりをいじる。ヒビキはここが好きだ。すぐに前から先走りを漏らし始めた。

「や、あ、んんんっ。でも、あ、あかちゃん」

「子どもがいるところは仮腹で、セックス自体は問題ないと医者も言っていただろう」

「ん、あ」

「優しくするから」

 最後にキスをしながら言うと、ヒビキは頬を染めて頷いてくれた。俺は既に爆発しそうになっていた剛直をヒビキに突き入れた。

「は、はい……。んっ!あああっ」

 ヒビキは俺が入れた途端、精液を漏らす。その様子がいやらしくて、俺は腰を打ちつける。

「ああっ、ん、あ、そこ、いや、ゃああっ!!」

 ヒビキは快感から逃げるように腰を逃がそうとするが、俺はヒビキの腰を掴み、引き寄せる。堪らないように髪を振り乱すヒビキがいやらしい。

 俺は精液を漏らしたままのヒビキをさらに扱き、更なる絶頂へ向かおうとする。

「いやっ、だ、めぇっ、ひゃ、ああんっ、ああああっ」

「っお前は俺のものだっ……!」

 ヒビキがドライオーガズムに達した時、俺もヒビキの奥深くに種を放った。

 翌朝、ヒビキは恥ずかしそうにしながらも、結婚式会場に着く頃には、楽しげに笑っていた。真っ白のタキシードもとてもよく似合っている。俺とお揃いのそれは、二人が番になることの証のようで、俺も機嫌がよかった。バロンが余計なことを言うまでは。

「ふーん。結婚式の前日だってのにお盛んだな。これだと、出席者全員に丸わかりだ」

「ヒビキは俺のものだから、何も問題はない」

 バロンはヒビキの隣に行くと、スンと鼻を鳴らして、皮肉を言う。その皮肉は、ヒビキがいつもより濃い匂いをさせているからだろう。

 狼獣人の匂いは、番の身体に染みついてはいるものの、身体の奥深くに精液を出した翌朝は、いつもより数倍濃い匂いがする。つまり、狼獣人には、その個体が前日にセックスしたかということがはっきり分かるのだ。狼獣人は慣れているため、突然匂いが濃くなった個体がいても、番と仲が良いのだなとしか思わない。

「えっえっ」

「これだと第二子もあっという間だな」

 そう言いながらも、俺の結婚を祝ってくれているのは知っている。

 ヒビキが戸惑っていたので、セックスの翌日は匂いが濃くなるから、周囲には分かるものだと伝えると、ヒビキは顔を真っ赤にして、鍵のかかるフィッティングルームにこもってしまった。

「今日は、みんなから、なにか言いたげな目で見られてるとは思ってたんですっ」

「ヒビキ?」

「ガムラさんは分かっていて、昨日あんなことをっ……。も、もうっ!ガムラさんなんて知りませんからっ」

「ヒ、ヒビキ、待ってくれ」

 日本人は貞節を重んじるから、セックスを恥ずかしがることを忘れていた。俺はヒビキの地雷を踏んでしまったのかもしれない。

「ガムラ、ヒビキくん。用意は出来たか?」

 俺とヒビキが揉めている中、祖父が俺達を見にやって来た。俺はそれどころではなく、フィッティングルームにこもってしまった愛しい番に許しを乞う。

「お前が可愛くて我慢が出来なかったんだ。頼む。許してくれ」

「ゆ、許しませんっ。結婚式はお一人でお願いしますっ」

「ヒビキ……」

 その様子を見ていた祖父が、地面が割れそうになるほどの大声で爆笑し、澄み切った青空に木霊した。

 終


 そして、ガムラさんと約束した日がやってきた。僕は一人で待ち合わせ場所である駅に向かう。社宅から一緒に行けばいいのではないかと思ったが、なぜか駅を指定されたのだ。もしかしたら僕といるところを見られたくないのかもと思い、少しショックを受けたが、気を取り直して支度をする。誰かと外で待ち合わせをするのは初めてのことで、いつもより念入りに身支度をして、僕は水色のシャツに白いパンツを履いた。

 待ち合わせ時間である午後一時の十分前に駅に着いた。待ち合わせ場所には既にガムラさんが着いていた。今日のガムラさんはダークグレーのシャツに黒色のパンツを合わせている。銀色の毛皮と相まって、シンプルな装いがとても似合っている。僕が近づいていくと、ガムラさんは目元を和らげて笑みを浮かべてくれる。その様子に僕は胸が締め付けられる。待ってくれている人がいることは何て幸せなことなのだろう。

「……すみません。お待たせしました」

「待っていない」

「ふふ」

 そして、僕達は歩き出す。ガムラさんは僕が転ばないようにゆっくりと歩いてくれる。まるで本当の恋人同士のようだと錯覚してしまう。

 歩いて十分程度した後に、ガムラさんが案内してくれたのはアクアリクムブックカフェというところだった。アクアリウムブックカフェは最近流行り始めている、魚を見ながら本を読めるカフェだ。店内には熱帯魚の水槽が設置されていて、まるで海の中にいるような気分になれるらしい。僕の趣味が読書だと知って選んでくれたのだと感じて、くすぐったい。古い洋館のような蔦が絡まった外装の建物がそのカフェのようだ。この中にアクアリウムがあるようには思えない。

「わぁ……」

 店に入ると、天井から吊り下げられた巨大な水槽がまず目に入った。建物は天窓になっており、日光に照らされながら泳ぐ魚達が見える。青くライトアップされた室内には、大小様々な種類の魚が泳ぎ回っていて、幻想的な雰囲気を作り出している。そして、水槽と水槽の隙間に本棚が設置されていて、そこから自由に本を選ぶようだった。僕が思わず感嘆の声を上げると、ガムラさんは満足げに微笑む。

「気に入ったか」

「はい……とっても綺麗ですね」

 僕が興奮気味に答えると、ガムラさんは優しく僕の髪を撫でた。それから、僕達は席に着いてドリンクを注文した。席はソファのように横に長いもので、他の席との間には衝立があり、自由にくつろげる仕様になっている。目の前に広がる青い世界に心を奪われながら、他愛のない会話を交わす。いくつか本を選び、それぞれ集中し始めた。沈黙でも心地よいのが不思議だ。

「……これから行きたいところがあるんだが、いいか」

「?はい。もちろんです」

 本を読んでいたら、ガムラさんからそう言われて頷く。そうして数時間カフェで本を読み、外へ出ると、外は日が傾き始めていた。夏特有の暑さに包まれつつ、どこへ向かうのかと思っていると、ガムラさんはタクシーを呼んだ。そのタクシーに乗り込み、ガムラさんが運転手に告げた住所は都心の一等地で、カフェから十五分ほどで着いた。タクシーから降り立った場所には高層マンションがあった。僕が頭からはてなマークを飛ばしているのが分かったのか、ガムラさんは苦笑して教えてくれた。

「ここは俺が住んでいるマンションだ。業者から改装が終わったと連絡があったからまた住める」

「え……」

 そういえば、ガムラさんが社宅に住んでいる理由は元々住んでいたマンションが改装工事をしているからだと言っていた。

「このマンションのキッチンは大きいから、また何か二人で作って食べようと思ってな。別々に社宅を出たのも、材料を買って冷蔵庫に入れて来たからだ。メニューはハンバーグでどうだ」

 戸惑う僕をよそに、ガムラさんは僕の背に手を当てて、高層マンションのエントランスに入っていく。ガムラさんは暗証番号を押してから、セキュリティキーを掲げるとメインエントランスの扉が開き、中に入るよう促される。エレベーターに乗って最上階へ上がり、部屋の前まで来ると、ガムラさんが鍵を差し込んだ。

「入ってくれ」

「はい……お邪魔します」

 そこは広々としたリビングがあり、あまり生活感を感じさせない空間だが、玄関に置かれた靴やリビングに置いてあるソファからは、ガムラさんの匂いがする。僕は緊張しながら靴を脱いで、部屋に上がる。ガムラさんの後に続いて廊下を歩き、ダイニングへと足を踏み入れる。

「……すごい」

 そこには大きなアイランド型のシステムキッチンがあって、カウンターテーブルもある。リビングには大きな窓で囲まれており、今はカーテンが開けられているので、目下には周囲のビルや家々の輝きが見える。

「これなら僕が包丁を振り回しても一緒に料理できますね」

「振り回すな。危ないからやめてくれ」

「ふ、あはは」

 僕が笑うと、ガムラさんは僕の頭を撫でた。それから、僕にエプロンを渡して、着るように言う。僕がエプロンを着けると、ガムラさんは冷蔵庫から食材を取り出し始めた。僕は何をすれば良いのか分からずオロオロしていると、ガムラさんは玉ねぎを手渡してきた。玉ねぎの皮は剥いたことがなく、じゃがいもと同じように剥けばいいのかなと考えていると、横から手が伸びてきて、包丁を持つ手を掴まれた。

「危ないだろう。玉ねぎの皮は手で剥ける」

 僕が肩を落とすと、ガムラさんは小さく息をつく。それから、玉ねぎの皮を丁寧に剥いて、まな板の上に置く。そして、それをみじん切りにする。その手際の良さを僕がじっと見つめていると、ガムラさんは僕の方を向かずに口を開いた。

「次は卵を割ってくれ」

「は、はい」

 そうして、ガムラさんに言われるがまま下拵えをすると、あっという間に俵型のハンバーグの種が出来た。ガムラさんはフライパンに置いて熱していくと、お肉が焼けるいい匂いがしてきた。

「もうすぐ出来るぞ」

「楽しみです」

「そうだな」

 ガムラさんはそう言って、また僕の頭を撫でる。そして、フライパンからハンバーグを取り出して皿に盛り付けた。ガムラさんがいつの間にか作ってくれていた付け合わせの野菜と一緒にテーブルまで運ぶと、二人で向かい合って席に着く。

「いただきます」

「どうぞ」

 湯気が立ち、肉汁がたっぷり詰まったハンバーグはお店で出てくるものと遜色なく美味しかった。僕が一口食べる様子をガムラさんは優しい眼差しで見守っている。

「!ガ、ガムラさん、とってもおいしいです」

「そうか。良かった」

 僕は手伝っただけとはいえ、お店で出てくるハンバーグのように肉汁が滲み出てとても美味しい。ガムラさんは僕の言葉を聞いて安心したように微笑んでくれる。

「そういえば、ヒビキは慰安会には行くのか」

 ガムラさんは、ハンバーグを食べながら、明後日に開催される慰安会について尋ねてきた。慰安会は、この慰安会は省全体の親睦を深めるため、全員で近場の温泉旅館に行き、飲み会をして帰ってくるというものだ。

 慰安会は例年この時期に実施されるのだが、ウルフワム打倒連合会の活動が活発になっている中、さすがに今年は見送った方が良いのではないかという意見もあったらしい。けれど、幹部陣は、今の時期に日本人と狼獣人が集まって飲み会をすることに意味があると考え、今年も開催することになったのだ。

「あ、はい。行くだけ行こうと思っています」

 慰安会の開催場所は、共同防衛省から電車で一時間ほどの場所にある風光明媚な旅館だ。毎年、この慰安会のために共同防衛省が丸一日貸切にしている。各々の仕事が終わり次第、電車に乗って向かうことになっている。絶対に参加したくない人は、終電まで残業して"泣く泣く"行けなくなったと言って休むのが通例だ。昨年のアカツキはそうやって欠席していた。僕はそこまでの度胸はなく、気が進まないながらも電車に揺られて行ったのだが、昨年の経理部の課長が「早く寝ろ」と言ってくれたので、旅館に着いて早々に自分の部屋に行って寝た記憶がある。今年も休む勇気はなく、行くだけ行って早めに自分の部屋へ行ってしまおうと思う。

「そうか……」

 そう答えると、ガムラさんは少しだけ考え込んでしまい、僕は答えを間違ってしまったかと不安になった。

 そうやってハンバーグを食べていると、ガムラさんがちらりと壁にかけてある時計に目をやるのが見えた。何かあるのだろうかと不思議に思っていると突然、僕の横顔をカラフルな灯りが照らした。何かと思い、窓の外を見ると、大輪の花火が見えた。最上階なので、満面の花火が何にも遮られることなく僕の目に入り込んでくる。ガムラさんはさりげなく部屋の灯りを落としてくれた。そういえば、今日は和平記念日だ。和平記念日とは、ウルフワムと日本が和平条約を結んだことを祝うものとして設けられた日だ。和平記念日のセレモニーでは大きな花火が打ち上げられる。今見ているものがそうだろう。そして、その花火を恋人と見ると幸せになるという都市伝説がある。

「わあ……きれい」

 思わず声を出して感嘆すると、ガムラさんが嬉しそうに僕を見つめる。

「……俺もベタだな」

「え……」

「最近、元気がなかっただろう。花火を見て、気分が良くなればと思ってな」

 ガムラさんは和平記念日の花火にまつわる都市伝説は知らないのだろう。僕が一緒にいてほしいと懇願し、誰よりも責任感のある彼は僕を見捨てることができないだけだ。そう思うと、喉から手が出るほど欲しいものがそこにあるのに、僕にはそれを手に取ることが許されないような気がすると、鼓動は急激に冷えていった。僕の様子を見て、ガムラさんは思わずと言った様子で僕に問いかけた。

「ヒビキはなぜ、そんな顔をする」

「え?」

 突然の質問に驚いて、ガムラさんの方を向いた。ガムラさんは僕の答えを待っているようでじっとこちらを見つめている。

「ヒビキが初めて俺の部屋に来た時、寂しいと言っただろう。俺は最初、タマルが原因だと思っていた。だが、ヒビキを見ていて、それだけではないと思った。お前はずっと寂しそうな顔をしている。何がお前にそんな顔をさせるのかが知りたいんだ」

「……っ!」

 ガムラさんが僕に向き合ってくれていることが分かる。その気持ちに応えることはとても自然なように思えて、僕は出自を打ち明ける。

「……僕には家族がいないんです。赤ん坊の時、親に捨てられて、それ以来ずっと施設で暮らして来ました」

「……そうだったのか」

 ウルフワムの常識からすると、親が子供を捨てるなんてありえないことだ。だからこそ、僕が施設にいた頃、嫌というほど浴びた奇異なものを見る視線を避けるため、僕は今まで誰にもこの話をしたことはなかった。けれど、今は不思議と恐怖はなかった。むしろ、ガムラさんに打ち明けてしまいたかったのかもしれない。

「僕は親に捨てられて、そのことが原因で周りの人から疎まれることもありました。時々、どうして自分はこんな目に遭わなければならないのだろうと悲観的に考えてしまうこともあります。僕は生まれてこなければ良かったのではないかって。そんなことを思う自分がそもそも嫌いなのに、どうしようも出来なくて。きっと、そんな感情が顔に出てしまっていたんだと思います」

「それは……辛かったな」

 ガムラさんはただ僕の話を聞いてくれた。その上で寄り添ってくれようとする姿勢が嬉しかった。だから、僕はぽろりと心の底から望んでいることを溢してしまった。

「僕も……いつかは誰かに必要とされて、幸せになりたいです」

「……」

「……変なこと言ってすみません。忘れてください」

 それは間違いなく僕の本心だったが、そんなことを言われてもガムラさんも困惑するだけだろうと思い、慌てて取り消したが、ガムラさんは真剣な表情を浮かべたまま口を開いた。

「俺は」

「?」

「ヒビキの力になりたい。初めて会ってから、嘘偽りなくそう思っている」

「え……」

「ヒビキが望むことは、俺が全て叶えてやりたい」

 ガムラさんは部下思いだ。そのことは初めて会った時から知っている。今の言葉も部下を思う気持ちで言ってくれている。分かっていてもその気持ちだけで嬉しい。そんなことを言ってくれる人はいなかったから。

 そう思った瞬間、僕の心のどこかがカチリと埋まり、僕はガムラさんのことが好きだという気持ちが湧き上がっていた。その気持ちはきっと、ずっと前から僕の中に芽吹いていたのだと思うけれど、心のどこかが欠けたままでは実ることはなかっただろう。

「ガムラさんにそう言ってもらえてとても嬉しいです……」

 気づいたと同時に確定した失恋に、思わず涙が出てきてしまい、僕は嬉しいのと悲しいのが混ざり合ったまま、泣きながら笑った。ガムラさんは僕の目尻に浮かんだ雫を指で拭うと、僕の手を優しく握った。

 僕は最後にどうしても叶えたいことが出てきてしまって、震える手でガムラさんの手を握り返して希う。

「あの、アカツキはもうすぐ戻ってるみたいです」

 僕の口からすらすらとありもしないことが出てくる。ただ、僕の言葉を聞いた瞬間、ガムラさんは何かが気に食わないかのように、少しだけ眉間に皺を寄せた。僕は湧き上がる思いのまま、自分の浅ましい願いを打ち明ける。

「だから、最後に、僕に思い出をくれませんか……」

 その言葉にガムラさんは驚いたように目を見開いた。

「一度だけで、いいんです」

「っ!……ヒビキ、何を言っているか分かっているのか」

 ガムラさんは焦ったように僕に向けて問い返す。彼の言う通り、僕の言葉は普通なら受け入れられるものではないだろう。だけど、もう止まらなかった。

「分かっています。でも……」

 ガムラさんは僕の言葉を遮るように声を荒らげた。そうして、少し気まずそうに目を逸らしながら口を開く。

「だが……」

 確かに部下としか思っていない人に迫られても困るだけだろう。僕はガムラさんの足の間に座り、彼のズボンのファスナーぬ手をかけた。初めての経験で手が微かに震えてある。

「ガムラさんは目を瞑っていてください。僕が全部します、から」

 僕がそういうと、ガムラさんはグルルと喉を鳴らして、観念したように僕の腕を引いた。そのままベッドルームに連れていかれると、ガムラさんはベッドの上で、そっと僕の身体を押し倒した。

「俺は美味しそうな獲物を目の前にして耐えられるほど大人ではない」

 ガムラさんはそう言って、僕の頭の横に手をついて僕を見下ろす。僕は手を伸ばして、その背中にしがみつきながら言う。

「……ガムラさん」

「ヒビキ……」

 ガムラさんが僕の名前を呼ぶ。その声があまりにも優しくて、胸が苦しくなる。ガムラさんは僕の手を背中から外させて、ゆっくり僕の服を脱がせていく。恥ずかしくて、顔を背けようとすると、ガムラさんが僕の顎を掴んで正面を向かせた。そして、そのままキスをした。以前とは違い、性急に舌が入り込んでくる。僕の舌と絡めるように、深く舌を入れられると、僕はガムラさんに食べられてしまうような気になる。

 僕が甘い唾液を飲み込むと、ガムラさんは口を離して、僕の上着を剥ぐ。それから、自分のシャツも脱いで上半身裸になった。ガムラさんは僕に覆い被さると、また深い口付けをする。彼の舌に自分の舌を絡める。口の中の敏感なところを舌で撫でられると、身体がびくりと跳ねてしまう。互いの唾液を交換し合うような激しいそれに頭がくらくらしてくる。息継ぎの合間にガムラさんは唇を離すと、僕に囁いた。

「可愛いな。ずっとこうしたいと思っていた」

 僕は言われたことを思考することもできずに、ガムラさんの愛撫に溺れている。そうしていると、ガムラさんは僕の乳首をピチャリと舐めた。初めての感覚に、僕は戸惑う。

「あっ、んっ……」

「……震えているな」

 ふるふると立ち上がる乳首を見て、ガムラさんは指で摘み、捏ねるように動かす。

「んっ、や、そこ」

 僕は思わず声を出してしまった。ガムラさんはもう片方の胸に吸い付いて、片方の手で反対の乳首を摘まむ。両方の刺激に耐えられずに身を捩っていると、ガムラさんの手が下肢に触れた。恥ずかしくてたまらないが、ガムラさんにされることなら全て気持ちよくなってしまうのかもしれないと沸いた頭で思う。

「ひゃ、あん!」

「可愛い……」

 ガムラさんはそう呟いて、ズボンの中に手を侵入させる。

「やっ!そこはっ……」

「全て見せてくれ」

 ガムラさんはそう言って、僕のパンツをずり下ろして取り去った。外気に晒されて、ひんやりとした感触に身震いしそうになる。

「綺麗だ」

 ガムラさんはそう言って、僕の性器を口に含んだ。生温かい口内に迎え入れられて、僕は堪らず喘いだ。

「あ、あああっ!!」

 ガムラさんは激しく上下に動き始める。信じられない光景が目の前に広がり、ガムラさんの肩を手で押すがびくともしない。じゅぷじゅぷという水音が部屋に響き渡るのが嫌で耳を塞ごうとすると、ガムラさんはその手を掴んだ。

「駄目だ。もっと聞かせてくれ」

 ガムラさんはそう言うと、更に強く吸ってきた。

「ん、ああっ!だめ!……っ!」

 温かな口の中と時折当たる硬い犬歯が気持ち良くて、僕はすぐに果てそうになる。その様子を見て、ガムラさんは僕から口を離す。

「あ……」

「もう少し我慢できるな?」

 思わず名残惜しそうな声を出してしまい、僕は恥ずかしくて真っ赤になっていると思う。そんな僕を見て、ガムラさんは目を細め、僕の後孔に指を這わした。

「あ……ん……」

 経験のない感覚に背筋が粟立つ。つぷりと指先が中に入ってきて、僕は異物感に眉を寄せるとガムラさんはすぐに指を引き抜いた。

「そうだな……」

「え……?あ、やぁっ!そこ、やっ」

 ガムラさんは独り言のように何かを言うと、突然僕の足を上げて押し倒したかと思うと、秘部に顔を埋めて、僕の後孔を舐め始めた。まさかそんなところを舐められるとは思っておらず、羞恥心から涙が溢れてくる。

「大丈夫だから。力を抜け」

「うー……」

 恥ずかしくて死にそうだったが、ガムラさんがそう言うならと僕は身体の力を抜いて、与えられる快楽に意識を向けた。ぐにぐにと動くしたが僕の秘所を溶かすように突く。

「んっああっ、や……!」

 そうして僕が夢中で感じ入っていると、ガムラさんは顔を離して、指が再び僕の中へと押し入ってくる。先程よりもスムーズに入ったそれは、ゆっくりと動かされる。最初は異物感しかなかったけれど、次第に慣れてきたのか、それとも僕がその先を期待しているせいなのか、だんだんと快感を覚え始めた。

「あ、ああっ……!えっ?そこっ、っ!だめっ」

「ここか」

 そして、ガムラかんが指を曲げた瞬間、感じたことのない快感に僕は一瞬目の前が白くなる。ガムラさんは、何も言わずにその敏感な箇所を確かめるようになぞり、僕の身体を拓いていった。

 そして、僕の息が上がり、身体の中の敏感な箇所が熱く脈打つくらいになって、ガムラさんは自身のベルトを緩めて前を開けた。出てきたものは大きく膨れ上がっており、その熱く腫れた一物を僕の後孔にあてがった。

「挿れるぞ。力を抜け」

「はい……」

 いつも優しいガムラさんが少し強引に僕の腰を掴み、ぐっと力を入れて僕の中に入ってきた。

「あ、あああっ……!!!」

「……っく」

想像以上の質量に、僕は息が出来なくなる。

「ヒビキ、ゆっくり呼吸しろ」

 ガムラさんは苦しそうに顔を歪めながら、腰を動かす。僕は痛みと圧迫感を感じながらも、ガムラさんを受け入れた。

「いい子だ」

 ガムラさんはそう言って、僕の頭を撫でた。僕はガムラさんと一つになれたことが嬉しくて、彼にしがみつくと、僕を甘やかすようにキスをしてくれた。しばらくそのままでいると、僕の身体も少しだけ馴染んできて、ガムラさんはゆっくりと律動を始める。

「あっんっ、あっ、あっ!」

 ガムラさんは指で確かめるように突いていた敏感な箇所を太い剛直で押しつぶす。それが強力な快感となり、僕はガムラさんの背中にしがみついた。ガムラさんの抽挿が激しくなるにつれて、僕の口から漏れる声も大きくなっていく。

 僕ガムラさんは僕の反応から、そこを叩きつけるように腰を突き入れる。

「あっ!あああっ!!だ、だめっイっちゃう!」

 僕がそう叫ぶと、ガムラさんは僕の一番感じるところを執拗に責め立てながら、僕の奥へと突き入れる。

「いいぞ。俺も一緒に……」

 ガムラさんはそう言うと、一層激しく僕を揺さぶった。

「あっ!イクッ!あ、や、あああー!!!」

「くっ……」

 僕が絶頂を迎えたのとほぼ同時に、ガムラさんもまた僕の中で達した。射精は長く続いて、温かいもので腹が満たされていく。ガムラさんは荒い息のまま、僕の頬を優しく撫でてくれた。僕達は何も言わずにお互いを見つめてどちらともなく唇を合わせた。そうしているうちに、また身体の奥底に火がついたような感覚を覚える。

「んっ……ふっ……」

「まだ足りないか?」

 ガムラさんはそう言って、僕の中に入っているものをゆるゆると動かし始める。

「はいっ……ガムラさん、もっと……」

 そう言って自分から腰を揺らすと、ガムラさんの瞳孔は更に小さくなった。それから、僕は何度もガムラさんに抱かれて、満たされた気持ちで眠りについた。

 *

 ガムラさんと身体を重ねた夜、僕が疲れて眠っていると、ガムラさんの仕事用の携帯から大きな警報のような音がなった。ガムラさんはすぐさま携帯を手に取ると、険しい顔をして服を着始めた。緊急事態が発生し、ドルーガー副指揮官から呼び出しがあったようだ。不安げにしている僕の頭を撫でて、「悪い。すぐに戻ってくるから、このまま寝ていてくれ。後で風呂に入ろう」と僕に言い残し、部屋から出て行った。僕はその後ろ姿を見送った後、思い出作りのために抱いてくれたガムラさんに感謝しながら、ふらついた足で自分の社宅に戻った。そのまま夜まで足腰が立たず、部屋に篭っていた。

 そして、意を決して、ガムラさんにメールを送ることにした。内容は、今までの御礼と「我儘に付き合わせてしまって申し訳ないけれど、これまでの関係を解消したい」というものだ。

 僕は自分の気持ちに気づいてしまった。そして、僕の罪も重くのしかかる。僕はアカツキに言われて、ガムラさんを騙すために近づいたのだ。そんな僕が、彼のそばに居続けることはできない。

 そのメールを送ってからすぐ、携帯の電源はオフにした。ガムラさんからの返信を見てしまえば、どんな内容であれ、僕はみっともなくあの熱をもう一度ねだってしまいそうだと思ったからだ。

 そして、月曜日の朝に出勤する時、ガムラさんが住んでいた隣の部屋を見ると、また空室になっていた。ガムラさんはあの高層マンションの改装が終わったので、社宅から出て行ったのだろう。タイミングとしては丁度良かったのかもしれない。

 僕はきっと、あの夜のことを死ぬまで忘れない。ただ、ガムラさんは僕が縋ったから抱いてくれただけだ。これ以上、彼を煩わせたくないと思う。

 アカツキには僕から謝って、そんなスパイのようなことはできないと言おう。それで見限られたらしょうがない。そう決めたら、これまで続いていた頭痛がすっかり無くなった。

 しかし、僕の体調に反して、出勤すると共同防衛省内は騒然としていた。その理由は、ウルフワム打倒連合軍から、「殺傷能力が高い小型爆弾の開発に成功した」という声明が届いたからだ。それを用いて、テロを起こされでもしたら、大量の被害者が出るはずだ。共同防衛省ではすぐさま緊急会議が開かれ、ウルフワム打倒連合軍の拠点を探し、メンバーを一斉確保することになったようだ。そして、その一斉確保のため、まず初めに、拠点の場所を捜索することになったようだ。そういう事件もあり、共同防衛省の内部では、ますます人間と狼獣人で分裂するような雰囲気が漂っていた。

 それでも、すでに予約をしてしまった慰安会をキャンセルには出来ないようで、ピリピリとした雰囲気のまま、慰安会が始まることになった。

 ※

 

「みんなグラス持ったか?」

「はい」

「よし!じゃあ、乾杯!」

「かんぱい!」

 それでも会場に着くと、既に到着していた職員達が宴会を始めていた。会場は大きな畳張りの宴会場で、ずらりと席が並べられている。その席の一つに座って、好きに食べたり飲んだりしていいようだ。昔の名残で会場の奥には舞台のような雛壇がある。会場をさっと見渡すが、ガムラさんはまだ来ていないようだ。もしかしたら、僕の勝手な行動に呆れ果てて、慰安会には来ないかもしれない。残念なのかほっとしたのか複雑な感情が心の中に渦巻いている。

 会場ではそれぞれの職員が好きにお酒を飲み、懐石料理を食べて、楽しんでいるようだ。しかし、どことなく狼獣人と日本人で二分されているように思う。皆楽しげにしているのに、目が疑わしげだ。こんな状況で飲み会なんてすべきだったのだろうかと思う。そうして入り口に佇んでいると、今年経理部に入ったヤマカワ君がこちらへやって来た。仕事で関わることはないが、一応後輩ということになる。

「ホンマさん……」

「ど、どうしたの?」

 そのヤマカワ君が泣きそうになりながら、僕に話しかけてきた。

「幹部への挨拶、一緒に来てもらえませんか。一年目はしなきゃいけないみたいなんですけど、狼獣人の部長とか今は正直怖いっす……」

「あ、そうだね。いいよ。一緒に行こう」

 狼獣人は序列を重んじるので、若手から挨拶に行がなければならない。そして、この慰安会では新入職員が幹部達に挨拶して周ることになっている。けれど、こんなぎすぎすした雰囲気の中、日本人であるヤマカワ君が、狼獣人の幹部達に一人で挨拶に向かうのは酷だろう。僕も一年目の時には経理部の先輩に連れて行ってもらったし、このままではヤマカワ君が可哀想だと思い、了承する。

 そうして、ビール瓶を片手に、ヤマカワ君と一緒に狼獣人の幹部達の元へ挨拶に向かう。狼獣人の幹部達は既に酔っているようだった。けれど、日本人の僕達が近づくと、少しだけ雰囲気を固くした。

「ハードナー陸上軍曹。彼は経理部の新入社員のヤマカワです。ご挨拶させて下さい」

 僕は、ハードナー陸上軍曹という大きな立髪と頬に刀傷を負った狼獣人に話しかけた。ハードナー陸上軍曹は僕の匂いを少し嗅いで訝しげな顔をした後に、ニヤリと笑いながら、ある服を投げて渡してきた。

「ホンマ、いいところに来たな。盛り上げるために、これ着てくれないか」

「え……」

「なんだ、何か不満なのか。日本人はそんな格好するのは嫌か」

「……いえ。分かりました」

 ハードナー陸上軍曹が渡してきたのは予想外の衣装だったが、断ればこの場の雰囲気が悪くなるのは明白だった。僕は諦めて、その衣装を受け取ると、宴席の端の方に行って着替えることにした。

 ヤマカワ君が申し訳なさそうにしていたので、「気にしないで。これが終わったらまた一緒に挨拶に行こう」とフォローをして、日本人がいる席で待つように言った。そして、僕はその衣装を着て、舞台裏にいる。腹と脚がスースーして心許ない。

「えー、では、かわいい狼獣人の登場です」

 日本人の職員である司会が戸惑いながらアナウンスをする。僕が今着ているのは、狼の耳とお臍が出るほど短い狼の毛皮を模したベスト、そして同じく毛皮のようなショートパンツだ。ショートパンツの後ろにはふさふさとした尻尾まで着いている。ハードナー陸上軍曹は、この衣装を日本人である自分が身につけさせることが目的なのかもしれない。日本人である僕を辱めたいのだろう。

 司会の狼獣人に手を引っ張られて舞台に上がると、どことなく沸き立つ狼獣人と苦々しげにしている日本人が見えた。自分だけ我慢すればこの場が丸く収まるならと震える足を踏ん張って立つ。けれど、恥ずかしさと心許なさで目に薄ら涙が浮かぶ。

「可愛い……」

 そんな僕を見て、誰かがそう呟いた瞬間、ガラリと会場入り口の障子が開いた。そこには、肩で息をするガムラさんがいて、僕と目が合った。いつもの黒い隊服を着ているところを見ると、今来たばかりなのかもしれない。ガムラさんは僕が雛壇上に立っているのを見た瞬間、目を大きく見開き、咆哮した。

「全員、敬礼!!一旦、静止!」

 その怒号に、宴会場にいた狼獣人達は全員立ち上がり、ガムラさんに敬礼をする。その一糸乱れぬ様は、さすが酒に酔っていても共同防衛省の職員だと感じる。敬礼に慣れていない日本人はわたわたとしながら立ち上がり敬礼をしている。

「そのまま副指揮官の指示を待て!!」

 そして、ガムラさんは呆けている僕の元へ走って来て、僕を隠すように抱き上げた。数日ぶりの分厚くて暖かな胸に抱きしめられて、僕の鼓動は大きく高鳴る。

 そのままガムラさんに抱き上げられて向かったのは旅館の一室だ。角部屋で、仄暗い明るさの照明が着いており、部屋の真ん中には大きな布団がひいてある。

 ガムラさんは僕をその布団に降ろして座らせると、僕の肩を押さえながら、見下ろして来た。

「ヒビキ、その格好はなんだ」

 威嚇するように鼻の部分に皺がより、とても不快なのだと分かる。人間の僕が狼獣人の真似をしているなんて、気持ち悪いし不愉快なのだろう。

「す、すみません。似合わないですよね。盛り上がるからと言われて……」

「……」

 初めて見るガムラさんの怒っている顔に怖くなり、ズボンの後ろについている大きな尻尾を前に持って来て抱きしめる。その様子を見て、ガムラさんの喉の奥からグゥッという音がした。

「……他の雄を誘惑して、俺の匂いを消したいのか」

「え……?」

 そう言うと、ガムラさんは僕の服の中に手を入れて、僕を布団に押し倒す。肌に直接触れられた感覚に、僕は慌ててしまう。

「えっ…!っひゃ」

 そのままガムラさんは顔を近づけて、僕の首筋に鼻を埋める。そのまま舌を這わされて、ゾクゾクとした何かが背中を走る。この前の夜とは違って、僕を捕食し尽くそうとする勢いのガムラさんに恐怖を感じてしまう

「あっ……んぅっ……」

 首筋をぺろりと舐められたと思ったら、次はがぶりと噛まれてしまった。痛いはずなのに、甘い痺れにも似た痛みが身体中を走り抜ける。

「やぁ……んっ……」

「……手に入りそうなんだ。俺はお前を逃すつもりはない。ようやく」

 ガムラさんが何を言っているのかは分からないが、そう言って首につけられたのは、質の良い黒革の細い首輪だった。ウルフワムの人々はパートナーに首輪を贈ると聞いており、一瞬浅ましい喜びが湧き上がるが、直ぐにその思い違いを打ち消す。この首輪はそういう意味で付けられたものではなく、中途半端なことをして逃げた僕に対する罰だろう。けれど、首輪をつけられると、ガムラさんの所有物になったような不思議な高揚感が生まれる。

「これから俺の匂いが付くまで抱く。……これは仕置きだ」

「えっ……?」

ガムラさんの言葉の意味を理解する前に、また唇を奪われていた。

「んぅ……むぅ……」

 口内に入り込んで来た舌が歯列をなぞり、上顎を擦る。再び与えられたそれが気持ち良くて、自然と腰が浮いてしまいそうになる。

「ふぁ……んっ……」

 息継ぎをする暇もなく続けられるキスに苦しくなった頃、ようやく解放された。

「ぷはっ……はぁ、はぁ……んっ」

 僕がガムラさんとの濃厚なキスによって惚けている内に、ガムラさんは自分の隊服をはだけさせながら僕のショートパンツをずらす。

 そこには緩く立ち上がった僕自身がふるふると震えている。そんな僕の様子を見て、ガムラさんは僕をうつ伏せにして、後孔に指を這わせてきた。以前の夜とは違い、指に滑りのある液体を纏っており、クチュリと音を立てて僕の中に入ってくる。何かオイルのようなものを纏っているようだ。

 二日前に拓かれたそこは快感を覚えているようで、何度か抜き差しされ、中を押し広げられると、徐々に違和感がなくなり、快感が生まれてくる。

「あっ、ああっ!っんあっ!」

 指が増やされて、中の痼を突かれる度に身体中に電気が流れるような衝撃を受け、無意識のうちに腰を動かしてしまう。

「ヒビキはここが好きだな」

 ガムラさんはそこを執拗に攻め立ててきて、いつの間にか僕の後孔は三本の指を飲み込んでいた。抜き差しされる度に、ぐちゅぬちゃと卑猥な水音がする。

「ああ、あ、んっ!!」

 僕の前もすっかり勃ち上がっていて、先走りでシーツを汚している。ガムラさんは僕の腰を持ち上げて、僕を四つん這いにした。

「挿れるぞ」

 ガムラさんはそう宣言して、僕の穴に自身をあてがった。そして、ゆっくりと押し進めて来る。それは前回よりもスムーズに入ってくる。圧迫感はあるものの、痛みはなかった。

「ん……あぁ、は」

「全部入った」

 ガムラさんはそう言いながら僕のお腹を撫でる。その仕草からガムラさんの喜びが伝わってきて、僕の心にも歓喜が満ち溢れた。ガムラさんはそう言うと、腰を動かし始めた。

「あ、はぁっ!んっ……ふっ、あっ、あっ、んっ」

 初めはゆっくりだった動きがだんだん早くなり、それに比例して僕の喘ぎ声も大きくなっていく。ガムラさんの剛直が一番感じる場所を激しく攻め立てると同時に、前も同時に弄られてしまえば我慢できるはずがない。

「ひゃ、ああっ!そ、こ、あっ、あっ!」

「ヒビキは俺のものだ」

 耳元で囁かれた声にすら感じてしまうほど敏感になっている僕の耳に舌を差し込まれれば、絶頂を迎えるのは時間の問題だ。

「ひゃっ!耳、やめっ!っあぁっ!っ!!」

 ビクビクと痙攣しながら達してしまった僕は、そのまま布団の上に倒れ込んだ。

「まだ終わりじゃないからな」

「えっ……?あ、ちょっ、待ってくだ……ひゃっ!あうっ!」

 今度は仰向けにされた状態で挿入されてしまった。先程とは違う角度から責められ、直ぐに絶頂を迎えてしまう。しかし、確かに絶頂を迎えたものの、僕のものからは何も出ておらず、立ち上がったままびくりと震えただけだった。ガムラさんはその様子を見て、唸りながら猛然と腰を突き入れてくる。

「あっ、だめっ!またっああっ!っ!!!」

 ガムラさんはまだ一度も射精していない。それどころか、大きさが増している気がするのだ。

「あ、んんっ、ガムラさ、お願いします……あ、僕、もう……」

 これ以上は壊れてしまうかもしれないという恐怖を感じながら、僕はガムラさんに縋る。

「っ!……すまない、もう少し奥に入る」

けれど、ガムラさんはそう言うと、僕の両足を肩にかけ、更に奥深くまで入ってきた。

「ひゃっ、深っ!んっ……!あっあっやぁっ!」

「くっ……」

 ガムラさんは小さく喘いだ後、熱い飛沫を僕の中に注ぎ込んできた。その熱さに身体中が歓喜して、僕自身も精液を放つ。

「あっ……んぅ……」

 ガムラさんの射精は長く、沢山出てくる精液でお腹の奥がじんわりと暖かくなり、満たされていく。

「はぁ……はぁ……」

 ガムラさんは、僕の中から引き抜かないまま、僕の頭を優しく撫でてくれた。

「俺は、何があろうとヒビキを守る。ウルフワムの魂に誓って」

 ガムラさんの言った言葉は、ウルフワムでプロポーズの言葉として使われるフレーズだと聞いたことがある。僕は僕の全てを受け入れてくれようとするガムラさんの気持ちに涙が出そうになる。

「……だから、ヒビキも俺を信じて側にいてくれ」

 そう言って、ガムラさんは僕の唇を塞いできた。ガムラさんの気持ちは分からないものの、その唇を拒むことは出来なかった。

 旅館で抱き合った後、宴会場へ戻ることなく、タクシーを呼んで、ガムラさんのマンションに戻った。そして、なぜか宴会で着た狼の衣装を再び着せされてまた抱き合った。

 ガムラさんが不快になるくらいなら脱ぎたいと思ったのだが、脱ごうとした瞬間、ガムラさんが尻尾を少しだけ垂らしたので、何か悲しませてしまったかと思い、慌てて着直した。何度か抱き合う内にお互い裸になってしまったけれど。

 そして、僕はいつの間にか疲れて眠ってしまったようで、ガムラさんが誰かと話している声がして、夜更けに目を覚ました。目を覚ますと、身体がさっぱりしており、ガムラさんが清めてくれたのだと分かる。ガムラさんはリビングで電話をしているようだ。寝室のドアが少し開いており、声が聞こえてくる。

「ああ。明日の警備図は既に作成して保存してある。……いや、俺の部屋のデータボックスに保存しているが、警備関連のデータは俺の虹彩がセキュリティキーだ。俺がいないと開くことすらできない。明日、お前に渡すから、少しくらい待て。この前はお前が電話をしてきたから、ヒビキを置いていかなければならなかったんだぞ」

 そこまで聞いて、僕ははっとする。今ガムラさんが話していたのは、アカツキが欲していた警備データの在処とそのデータの鍵についてだろう。思いがけず知ってしまったトップシークレット事項に僕は目が覚める。

「ああ。じゃあな」

 どうやら会話が終わったらしく、ガムラさんがこちらへ歩いてくる足音が聞こえる。

「起きたのか」

「……は、はい」

「まだ寝ていろ」

 そう言うと、ガムラさんは僕の隣に入り込み、抱きしめてきた。僕はその熱を忘れないように彼の背中に抱きついた。

 *

 翌朝、目が覚めると、ガムラさんは甲斐甲斐しく僕を世話してくれた。一緒にお風呂に入り、汗や体液を流してくれたが、僕の奥に注がれた精液を掻き出してくれることはなかった。

「腹を下すことはないから」

 そう言っていたが、本当に大丈夫なのだろうかと心配になる。そう思いつつも、ガムラさんが忙しげに耳を動かすので、あまり深く聞かないで欲しいのかもしれないと思い、詳しく聞くことはやめた。

 慰安会の翌日は、慰安会に参加した人だけ午後からの出勤で良いことになっている。けれど、ガムラさんは朝から出勤しなければいけないようだ。なので、僕も一旦社宅へ帰ることにした。ガムラさんは、「俺が戻るまでこの部屋にいてくれて構わない」と言ってくれたが、流石にそれは申し訳ない。ガムラさんの服を借りて、帰ることにした。ガムラさんの服を着た僕を見て、大きく尻尾を振ったのはどうしてだろう。

 最後に見たガムラさんの様子を考えながら、最寄りの地下鉄の駅に向かって歩いていると、ビルの物陰から聞き馴染みのある声が聞こえた。

「よお。ヒビキ」

「……アカツキ?」

 そこにいたのは少しだけ窶れたアカツキだった。

「元気か?何も言わずに休みをとって悪かったな」

「う、ううん」

 瞳を鈍く光らせながら、僕の手を掴み、ビルの物陰に誘う。アカツキに手を掴まれた時、ひやりとした何かを感じて鳥肌が立つ。ガムラさんに触れた時はあんなにあたたかかったのに。

「そういえば、この時期は慰安会だな。あの旅館に行ったんだろ。それでヴィッセルと帰ってきたのか。その様子だと二人で楽しんでたみたいだな」

「えっ?あ、ええと……」

 いきなり再開したアカツキを目の前にして何を言えばいいのか分からなくなり戸惑う。

「まあ、いい。それより、ちょっとこっち来い」

「ちょっ……」

 僕はアカツキに腕を引っ張られ、ビルの物陰の脇に止めてあった黒いボックスカーに詰め込まれる。後ろのシートに閉じ込められてしまい、出るには目の前のアカツキを退ける必要がある。

「それでお前に頼んだ仕事はどうなってる」

「……」

「おい、黙ってたら分からねえだろ。あそこはヴィッセルのマンションだな。ヴィッセルの持ってる軍事データはどこにあるか分かったか。これが片付いたら、一緒に暮らそう。お前の家族になってやるよ」

 その口ぶりを聞いて、アカツキはこんな独善的な男だっただろうかと思う。僕は少し前まで、アカツキしか話す人がいなかったので感覚が麻痺していたのだ。

 それに、僕のことを本当に思ってくれるなら、こんな条件をつけて僕に何かを強要なんてしない。ガムラさんと一緒にいて、やっと気づくことができた。僕は湧き上がる思いと一緒にアカツキに対して拒絶の言葉を吐く。

「僕はアカツキに協力できない!もう僕に関わらないで欲しい……」

 僕はこれまで、自分から他人を遠ざけることは出来なかった。自分がそんな価値のある人間だと思えなかったからだ。けれど、ガムラさんと出会って、僕は変わりつつある。僕を支えようとしてくれる人がいることを知ることができたから。

「……ふざけるんじゃねぇぞ。親なしに優しくしてやったのは俺だけだろ。その恩を忘れたのかよ」

 アカツキは口元に浮かべていた笑みを消して、冷たい光を宿した瞳で見つめて来た。その瞳にはこれまで浮かんでいた偽りの情は消えて無くなり、道具を見るような無機質さだけがあった。

「もういい。じゃあ、お前は終わりだ。狼獣人側についた人間には反吐が出る。ここじゃ騒ぎになるから、俺達の拠点まで気を失っていてくれ」

「っ!」

 僕は後ろのシートにいた人物に気づかないまま、首筋に衝撃を受けて意識を失った。そして目を覚ました時、僕の目に映ったのは薄暗い倉庫のような場所だった。僕は手を後ろで拘束されてコンクリートのような硬い地面に寝かされているようだ。意識はあるのに、身体は動かせない。何か薬物のようなものを使われたのかもしれない。そうしてぼんやりとした意識のまま横たわっていると、どこかから話し合う声が聞こえた。壁を一枚隔てたようにくぐもっているので、おそらく隣の部屋から聞こえるのだろう。

「……〜っだから、洗脳はしてたし、途中までは上手くいってたんだよ。お前が作った映像をいくつ見せたと思ってる」

 アカツキの声が聞こえる。何かに焦っているようだ。そして、そんなアカツキを揶揄う声が聞こえる。

「あれを何度も見せたの?お前も酷いことするねー。……まあ、洗脳って心のどこかが空っぽじゃないと染み込んでいかないから、その部分が満たされたら解けることもあり得るよ」

「でも、あんなに早く解けると思わなかった」

「……ふうん。抜かりないお前がね」

「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」

 アカツキと誰かが剣呑な雰囲気になり、それを諌める声が聞こえる。

「おいおい。内輪で揉めるな。今、うちで揉め事を起こしたくない。あの子は、ここに連れて来た時点で殺すしかない」

「ああ」

 結論が出たようで、複数名がこちらへ向かってくる足音が聞こえる。徐々に薬物が抜けてきて、手足を動かせるようになり、僕は何とか逃げられないかと拘束を解こうとするが全く動かない。すると、目の前の壁が開いた。入ってきたのはアカツキだ。

「……起きてたのか」

「……アカツキ、何するつもり?」

 アカツキは僕を冷めた目で見ている。自分が何か無機物になってしまったように感じて。僕は覚悟を決めて聞いた。

「ははっ。そんな顔すんなよ」

 アカツキは笑顔を浮かべているものの目は笑っていない。

「これから、お前を殺す。俺が殺してやる」

「っ……!」

「っぐぁっ、なんだ?!」

 アカツキはそれだけ言うとナイフを振り上げた。僕は目を瞑り歯を食いしばったが、いつまで経っても痛みを感じることはなかった。代わりに聞こえたのはアカツキの悲鳴だ。恐る恐る目を開けると、そこにはガムラさんがいた。ガムラさんはアカツキの手首を掴み、もう片方の手でナイフを持っていた手を押さえつけていた。

「離せ!!」

「ガ、ガムラさんっ…!」

 アカツキは必死に抵抗するが、ガムラさんの力が強いのか全く振りほどけず、そのまま床に押し倒される。ガムラさんはアカツキの腹の上に馬乗りになると、胸ぐらを押さえて一際大きい声で吼えた。

「人質は保護したっ!総員、攻撃開始っ!殲滅しろ!」

 その合図と共に銃を持った狼獣人の集団が突入してくる。彼らは共同防衛省の精鋭達で、一瞬でアカツキを取り押さえた。隣の部屋に逃げ込んだ仲間達も同様に取り押さえられていた。

「ヴィッセルっ!!……この野郎!退けっ!」

 アカツキは舌打ちをしながら悪態をつく。僕はその様子を呆然と眺めることしか出来なかった。あっという間にアカツキ達は取り押さえられ、ガムラさんは僕の手首のロープを切ってくれた。

「ヒビキっ!てめぇ、裏切ったな!」

 アカツキが狼獣人に連行されていく時、僕を見て必死の形相で叫ぶ。たとえ偽りであっても僕に優しくしてくれたアカツキに罵られて、胸が痛んだ。

「……お前だけは絶対に許さないからな!お前は俺のものだ!」

「っ……!」

「聞くな」

 最後の断末魔が響いた時、ガムラさんは咄嗟に僕の耳を塞いでくれた。僕のことを守ろうとしてくれる手のあたたかさを感じる。そして、アカツキは連行されていった。色々なことが起こり、呆然としている僕にガムラさんは説明をしてくれる。僕達がいる場所は、ウルフワム打倒連合軍の拠点だったようだ。ウルフワム打倒連合軍にとってはトップシークレットであるはずなのに、なぜこんなにも早く辿り着けたのか聞くと、言い淀んでしまった。そして、その問いに答えないまま、ガムラさんは僕を手当すると言って、ガムラさんのマンションまでやって来た。マンションについてから、手首を消毒されて、包帯を巻かれてから、ガムラさんは僕をずっと抱きしめている。

「大丈夫か?」

 ガムラさんは心配そうに声をかけてくれた。

「……ガムラさんはどうしてあの場所に?」

 先ほど聞けなかった答えを再度聞くと、ガムラさんは苦笑いしながら答えてくれる。

「……君につけていた監視役から、タマルが君を連れ去ったという情報が入った」

「監視役、ですか」

「ああ、すまない」

 思いもよらない言葉を聞いて、驚く。ガムラさんは忙しなくしっぽを動かしている。

「君に気付かれないように監視役をつけていた。……君はタマルと仲が良かったから」

 そして、ガムラさんは僕が知らなかった事実を教えてくれた。

「元々、タマルは素行が怪しかった。だから、幹部陣でマークをしていたんだ。奴の足取りはなかなか掴めなかったが、ウルフワム打倒連合会のリーダーと何らかの連絡を取り合っていることだけは分かった」

「そうなんですね……」

「初めてヒビキが俺の部屋に来た時も、タマルから言われて俺を騙そうとしているのかもしれないと思った。たが、そこでヒビキを突き放すことは出来なかった」

「え……」

 ガムラさんの口から語られる事実に僕は固まってしまう。そうであるならば、僕の悪行は最初から全てガムラさんに知られていたことになる。それにも関わらず、ガムラさんは僕を受け入れてくれていたのだ。

「俺はずっとヒビキのことが気になっていた。休憩室で初めて話した時からだ。どこか寂しげに笑うヒビキを俺の手で幸せにしたいと思って、タマルと付き合い始めたという噂を聞いても諦められなかった。そんな相手が縋り付いてきたんだ。手を振り払えるわけがないだろう」

 ガムラさんは僕の手首の包帯を巻き終わり、僕の両手をしっかりと握りしめて、僕の目を見ながら伝えてくれる。

「全てが終わったら言いたいと思っていた。ヒビキ、私のパートナーになってくれないか。私の家族になって欲しい」

「っ……!」

「お前の欠損が、家族の不在で出来たものであるなら、俺はそれを埋めたい。ヒビキに寂しい思いをさせることは絶対にないと誓う。俺が一生そばにいる。愛しているんだ」

 僕はその言葉を聞いて、ずっと欠けていた部分が優しく暖かなもので、ぴったりと埋まったような気がした。その衝撃で、僕の目からは大粒の涙が溢れる。

「……っはい。ガムラさん、僕も貴方を愛しています」

 僕の返事を聞いた瞬間、ガムラさんから抱きしめられた。あたたかな胸の中で僕はこれまでにない幸せを感じ、涙を止めることはできなかった。

 そして、僕達はパートナーになった。この前プレゼントされた黒い首輪には、二人のイニシャルが入った銀製のプレートが加わり、僕はガムラさんの優しさに包まれながら、家族の幸せを少しずつ感じていった。

 そして、パートナー届を出す頃には、既にガムラさんの子が僕のお腹に宿っていることが判明した。時期的に慰安会の時に着床したのだろうと医師から言われて、それを知ったドルーガ副指揮官から、ガムラさんが詰められていた。しょんぼりしているガムラさんを庇うために、ドルーガ指揮官に対して、「ソファのサイズはもう少し大きめがいいと思います」と言ったら、訳がわからない顔をされてしまった。

 ガムラさんが気まずげな顔をしていた理由は今でも分からない。けれど、笑い声の絶えない家で、今はただ新しい家族が増えることを心待ちにしている。

※別PNにて某サイトで公開していました


「ホンマくん、これも処理しておいて」

 灰色の毛皮に包まれた他部署の同僚から一枚の領収書を手渡され、欄に記載してある金額を確認して受け取る。僕より頭一つ分ほど背が高く、黒い隊服を着た同僚は、僕が領収書を受け取ってからも、頭上から僕を見つめているのが分かる。

「た、確かに受け取りました」

 その不躾な視線に、何か失礼なことをしてしまったのかと不安になってしまう。その不安から喉が塞がり、思わず声が裏返ってしまった。相手はそんな僕の様子を見て、「よろしく」と言ってフロアを出て行った。僕はほっと息をついて、自分のデスクで受け取ったばかりの領収書の処理を始めた。

 ここは、「ウルフワム・日本共同防衛省」、通称「共同防衛省」の経理部があるフロアだ。本日、四月三十日は省の下半期の経費清算の締め日である。フロアにいる経理部の職員は全員忙しない様子で、手元の紙を見つめながら、目の前のパソコンに数字を打ち込んでいる。

 先程、僕に領収書を手渡した同僚は、灰色の毛と鋭い牙を持つ狼獣人だ。彼らの背丈は僕より頭一つ分は高く、服の上からでも肩幅や足腰の頑強さが分かる。それに対して、僕は黒目黒髪という一般的な日本人の見た目をしている。人より大きく垂れがちな目はよく「眠そう」と言われるくらいで、特に目立つ点はない。口と鼻が小さいため、幼く見えるところは密かなコンプレックスだ。身長は百六十五センチメートルで止まり、筋肉がつきにくい体質で、狼獣人に小突かれただけでよろめいてしまうだろう。いつまで経っても小柄なままで、今もスーツに着られている

 東京湾の真ん中に浮かぶ共同防衛省には、狼獣人と日本人という二つの種族が働いている。その理由は、僕の故郷である日本が二千百年頃に、狼獣人の国である「ウルフワム」という国に統合されたからだ。ウルフワムの人々を指して、狼獣人と呼んでいる。

 ウルフワムは最新の叡智を持った狼獣人達が治めており、古来より太平洋の真ん中にあったのだという。しかし、狼の見た目を持つ彼らが、他の種から迫害されるのを防ぐため、彼らは高度な技術で国全体を隠し、他国のレーダーや航空写真に映らないようにして、ずっとその存在を秘してきた。

 そんなウルフワムがある日、日本に使者を送って来た。その使者は「ウルフワムは日本と和平条約を結びたい」と言った。しかし、提示された和平条約の内容はどう見ても日本側に不利なものが多く、対等な関係での条約ではなかった。

 しかし、その頃の日本は既に先進国としての地位を失い、国力を欠いていたため、その要望を一蹴することができなかった。資源がない上に、世界各国の技術レベルが上がったので、日本で加工して売れるものが無くなってしまったのだ。財政は赤字が続いており、国が破綻する可能性もあったほどで、とてもじゃないが戦争なんていう手段は取れなかったと聞いている。

 ウルフワムの要求を聞いて、当時の日本政府は、最初は突然のことに驚き、慌てふためいたものの、ウルフワムの技術力の高さと和平条約の見返りとしてもらえる和平協力金の金額を見て、直ぐにその要求を受け入れた。

 ウルフワムでは金と石油が大量に採れる。ウルフワムは昔から、その金と石油を裏でウルフワムが経営するダミーの企業を経由して、巨万の富を得ており、財政的には当時から非常に潤った国だったのだ。こうして、ウルフワムは、日本政府に対して多額の和平協力金を支払い、日本の国土の一部割譲と政府のコントロール権、そしてありとあらゆる場面で日本国民と同等の権利を得たのだ。ウルフワムの豊富な資源と技術力の高さを目の当たりにした国々は、日本だけを属国にして他の国に手を出さないのであればそれでよいと考え、ウルフワムはあっさりと国際社会での地位を認められた。それが今の二千二百三年から約百年前のことだ。

「この領収書も処理しておいて。って、えーと、あー、そこの黒髪くん」

「は、はい」

 和平条約が結ばれてから、日本人とウルフワムは同等の国民であるという建前ではあるものの、実際は肉体的にも頭脳的にも優れた狼獣人に頭が上がらない日本人の方が多い。現に、今やってきた他部署の日本人は、出入り口に一番近い場所に座る狼獣人の同僚ではなく、少し離れた場所にいる僕を呼びつけた。

 そんな豊かな資源と優れた技術を持つ彼らが、二千百年になって存在を明らかにした理由は、ウルフワム内で原因不明の熱病が流行り、狼獣人の女性が少なくなったからだと聞いたことがある。そもそも性別に関係なく狼獣人は妊孕力が低く、狼獣人同士だと子を成すことが難しいらしい。子を成しづらいことに加えて、狼獣人の女性もいなくなってしまったために、開国することに決めたのだという。

 そして、人間の生殖能力の高さと日本人の見た目に目をつけたのだそうだ。狼獣人と日本人の遺伝子は強力に結合しやすく、子どもが出来やすいと聞く。また、狼獣人は総じて小さいものに愛欲を感じ、また黒色の毛皮は高貴さを感じさせるそうで、狼獣人よりはるかに体格が劣り、黒髪を持つ日本人は彼らのお眼鏡に叶ったらしい。ちなみに、狼獣人の男性は、交配する人間の性別に関係なく子を成す力がある。彼等の精子は男性の腹に仮腹を作る効用があるらしい。

 ウルフワムの人々の最大の特徴は、狼と人間を掛け合わせたような姿形をしていることだ。狼獣人は、男性は平均して百八十センチメートル、数少ない女性も百七十センチメートルはあり、男女ともに筋肉質な身体つきをしていて、顔は狼特有の凛々しさを持っている。そして、狼獣人の多くが想像できないくらいに理知的な性格をしており、全ての狼獣人は日本語を話せる。それに対して、日本人でウルフワムの言語を話せる人はいない。

 とても賢い狼獣人だが、読み方が何通りもある漢字が苦手のようだ。特に人名は日本人でも読み方が難しいことが多い。狼獣人は名前を大切にするため、言い間違いは避けたいと、ウルフワムと和平条約を結んでからは、日本人はカタカナの名前を用いているようになった。

 僕の名前はヒビキ・ホンマで、ホンマがファミリーネームだ。約百年前、つまりウルフワムとの統合前は、日本人はファミリーネームの後に名前があったらしいけど、今ではすっかり馴染みのない文化になってしまった。

 そんな風に日本の文化と社会をがらりと変えたウルフワムとの和平条約により、僕が働くウルフワム・日本共同防衛省も設立された。名目上は二国の和平の証という意味を込めて設立された政府組織で、日本の各地に支部があり、本部は東京湾の埋め立て地に建てられている。

 共同防衛省は両国の軍事面のことを管轄していて、主な仕事内容は、両国間の防衛面に関する監視・威嚇や、共同して行う軍事演習の指揮監督などだ。もちろん有事の際には兵を出す役割も担っている。そして、そういう役割を持つ共同防衛省はいわゆる内勤と実働部隊で構成されている。内勤は経理部や総務部、法務部で、日本人が多く働いている。隊服は着ず、スーツで働いている。

 実働部隊は陸上部隊、海上部隊、航空部隊に分かれており、それぞれのフィールドに特化した訓練を行っている。実働部隊は大半が狼獣人だ。狼獣人は身体能力に優れており、戦闘に関しては向かうところ敵なしであるからだ。黒い隊服が制服で、襟に所属部隊のバッチを着けている。

 僕がいる部署は経理部で、共同防衛省の運営に関わる様々なお金を扱うところだ。各省庁との予算折衝や給与の支払いなどをやっている。経理部は手先が器用で細かな作業が得意な日本人が多く配属されており、僕はその中でも若手だ。僕はこの共同防衛省に二十歳で入省して、あっという間に二年が経ってしまった。今年の四月で三年目に入る。

 まだまだ仕事のやり方は覚えきれていないが、上司や先輩は新人にかかりきりなので僕ばかりに時間を割いてもらうことは出来ない。ただ、毎日の仕事は待ってはくれないので、四苦八苦しながら仕事をしている日々だ。

 今日は皆忙しそうにしているため、誰かの足手纏いにはなるまいと、経費精算の書類を睨みつけていたら、頸にチリッとした視線を感じて、思わず顔を上げる。そうすると、フロアの入り口に一際大きな狼獣人が立っており、目が合った。

「……っ!」

 そこにいたのは、ガムラ・ヴィッセル指揮官だった。いつものように、襟のついた黒い隊服を来ている。僕は弾かれたように席を立ち、用を聞きに行く。

「ヴィ、ヴィッセル指揮官。何か御用でしょうか?」

「今日が経費の締め日だと聞いて、慌てて持ってきた。まだ間に合うか」

 ガムラ・ヴィッセル指揮官は、弱冠三十歳で、共同防衛省のトップに上り詰めたエリートだ。銀色に近い灰色の毛は艶々としている。声は低く穏やかで、聞いていてほっとするような響きがある。瞳は深い青色をしており、彼の穏やかで静謐な内面を表しているようだ。しっかりとした体躯を持つ狼獣人の中でもその体格の良さは折り紙付きで、毛皮の下にはしっかりとした筋肉に覆われているのだと思う。体術に優れており、指揮官ではあるが前線に出て戦闘することもあると聞く。彼に見つめられると、知らず知らずに顔が火照る。彼が素晴らしい燦然と輝く太陽だとしたら、僕はそこらへんには這いずり回る蜥蜴だ。干からびそうになりながら、彼を直視できずに吃りながら領収書を受け取る。

「は、はい。では、ぼ、私が受け取ります」

「ありがとう。ヒビキ」

「……っ!はい」

 受け取る瞬間、一瞬だけヴィッセルさんの手に触れてしまい、触れたところから熱が移る。そして、彼が省内の部下を名前で呼ぶことは知っていたが、一度しか話したことがない自分の名前まで覚えていてくれているとは思っても見なかった。その戸惑いから耳まで真っ赤になってしまっているのを自覚しながら、急いで踵を返して自分のデスクに戻る。ヴィッセル指揮官もフロアから出て行ってしまったようだ。太陽に触れてしまったことで心臓がバクバクと音を立てるが、それを無視して、机の上に積んである紙の山から目的のものを一枚抜き出す。そこには、今年上半期の経費精算の一覧が載っていた。それを睨みつけながら、動悸を鎮めるように仕事に集中し始めた。

 積み重なった書類を一つずつ処理していたら、あっという間に時間が経ってしまった。経費精算の締め日の後は、ただひたすら領収書や契約書を処理していかなければならない。経理部は毎年、この時期がとても忙しいのだ。僕は終わりの見えない仕事をいくつも抱えていて、今日は残業しなければならないようだ。現に時計は午後七時に差し掛かっている。

「ヒビキ。食堂いくぞ」

「ア、アカツキ……」

 肩を揉みながら仕事を続けようとする僕に声をかけてきたのはアカツキ・タマルだ。少し茶色い髪と分厚いフレームの眼鏡が印象的だ。彼は経理部の同僚で、僕の彼氏として周りに知られている。僕なんかが彼氏なんて作れるはずがないのだが、それはその通りで、アカツキとの関係は仮初のものだ。つまり、僕達は周りを欺いて交際していると言っている。

 なぜそんなややこしいことをしているのかというと、アカツキが重度の狼獣人嫌いだからだ。狼獣人は小さい人や物を可愛く思う特性があり、人間、特に日本人を可愛く愛しく思うと言われている。しかし、アカツキは生粋の狼獣人嫌いで、彼らの恋愛対象にされるのが死ぬほど嫌なのだそうだ。確かにアカツキは狼獣人には並ぶほどの高身長で百八十センチを超えており、僕とは十五センチも違う。また詳しく聞いたことはないが、異性愛者なのだと思うので、狼獣人の男性から好意を寄せられるのが嫌なのだろう。

 それである日、狼獣人からアプローチされないように、僕に対して身代わりの恋人になって欲しいと言ってきたのだ。

 狼獣人は本気で好きになった相手に一途であり、一度作ったパートナーは死ぬまで変えないため、恋人がいる人は絶対好きにならない。その習性を逆手に取って、アカツキは僕を隠れ蓑にしている。

 アカツキは僕より二年前に入省した先輩なので、現在五年目だ。大学を出ているので、今年二十七歳になるとこの前言っていた。彼は経理の専門知識を持っているため、僕の倍ほどの領収書を抱えていても小一時間あれば全て処理しきれるほど有能だ。けれど、気が強く、好き嫌いが態度に出てしまうため、敵も多い。そんなアカツキはつい半年まで僕の指導役だった。

 経理部に入ってから彼のお世話になりっぱなしで、少しでも恩返しができたらと思って、僕はこの関係を了承している。仮初の関係は既に一年ほど続いており、この関係が偽物だとばれないように、お互いの左手の薬指にお揃いの銀色の指輪もつけている。

「今日の日替わりは、トンカツ定食だってよ。早く行こうぜ」

「う、うん」

 僕が椅子を立ったのを見て、アカツキは満足そうに微笑んだ。アカツキは僕よりも先輩であるため、本来は敬語を使わなければならないし、彼のファミリーネームであるタマルさんと呼ぶべきなのだが、そんな他人行儀な話し方は恋人として不自然なので、アカツキから二人の時は敬語をなくすように言われている。以前は、その切り替えに戸惑っていた僕もようやく慣れてきたのが満足なようだ。

 そして、二人で経理部のフロアを出て、地下にある食堂へ向かう。食堂へ着くと、これから残業する人達で混んでいて、僕達はタイミングよく空いた一番奥の席に向かい合って座った。そして、僕はきつねうどんを頼み、アカツキはトンカツ定食を頼んだ。美味しいか美味しくないかで分けるとしたら、そのちょうど真ん中に位置しするきつねうどんを食べながら雑談をしていると、不意に思い出したかのようにアカツキが口を開いた。

「あ、そうだ。ヒビキに聞きたいことがあったんだけど、総務課の追加費用って処理してる?」

「う、うん。僕が担当だってさっき課長に言われたけど、どうかした?」

 アカツキの顔を見ようと思って顔を上げると、今日話したヴィッセル指揮官が、僕の位置から見える席でご飯を食べているのが見えた。僕は滅多に残業をしないためこの時間の食堂を利用したことがなく、ヴィッセル指揮官は食堂をよく利用しているのだろうかと思い、ふと彼の方を見つめてしまう。ヴィッセル指揮官は大盛のラーメンのようなものを食べており、大きな口でバクバクと食べる様子は見ていて気持ちがいいし、それでいて不快感がない。その食べっぷりに惚れ惚れしてしまい、よそ見をしていると、アカツキは勝手に話し出す。

「実はさ、あれって俺が直接総務課に行って作業するはずだったんだよ」

「そ、そうなの?」

 急に言われた言葉に驚いて、アカツキに目を向ける。先ほど課長から頼まれた仕事がややこしいものだったので、少しナーバスになっていたのだ。

「でも、ちょっと忙しくて行けなくてさ。悪いんだけど、総務課まで代わりに行ってきてくれないか?」

「わかった」

 元々アカツキがやるはずだった仕事であれば、難しくて処理が複雑なのも理解できた。アカツキは申し訳なさそうに聞いてくるが、今まで僕が彼から教わってきた時間と内容を考えれば大した問題ではない。そう思い、頷く。

「サンキュー。助かるわ」

 アカツキは、そんな僕の様子を見てニッコリと笑ってから、食事を再開した。僕はアカツキとの会話が途切れたので、再びヴィッセル指揮官の方を窺い見ると、先程まで空席だった彼の隣りには仲の良いバロン・ドルーガ副指揮官が座っていた。二人は談笑しながら、ご飯を食べている。

 ヴィッセル指揮官とドルーガ副指揮官は、ウルフワムの中でも同じ故郷の出身だそうだ。年齢は一才違いで、ウルフワムにある高等学校へも一緒に通っていたほど仲がいいと聞いたことがある。ドルーガ副指揮官の方が毛の色が黒っぽいが、毛の色が銀に近いヴィッセル指揮官と並ぶと、見目の良さも相まって、とてもしっくりくる。二人を見ていると、太陽が二つ並んだようで、蜥蜴の僕はじりじりと焼けこげそうになる。

「……なぁ、ヒビキ。大丈夫か」

「なにが……?」

「いつにも増して、ボーッとしてるから」

 アカツキは心配そうに僕の額に手を当ててくる。その家族のような振る舞いが嬉しくて、僕は下を向いてしまう。突然のことに少し頬が染まる気がした。

「あ、ごめん……。なんでもない」

「あー、なんか狼どもの気持ちが分かる気がする」

 アカツキは僕の様子を見て、何かに納得したようだ。しかし、その何かは分からず、思わず聞き返す。

「え? 」

「いや、こっちの話し。それで、話しは変わるけど、明日は俺の部屋来いよ。明後日は土曜日で休みだし、また映画見よう」

「う、うん」

 僕の問いには答えるつもりがないようでスルーされる代わりに、映画鑑賞に誘われた。僕とアカツキはしょっちゅう一緒に映画を見ている。そのきっかけは、アカツキの大の映画好きが高じて、臨場感が味わえる大きなテレビと特注品のスピーカーを購入したことから始まった。仮交際を始めた当初から見ているので、もう何十回と見ている。僕はある理由から、アカツキの誘いを了承することを一瞬だけ迷ったが、折角誘ってくれたのだから行かなければと思い返事をすると、彼は嬉しそうに笑った。アカツキは以前、一人で見ていてもつまらないと言っていたので、時間が空いている限り付き合いたいと思っている。

「よしっ!じゃあ、決まりな」

 言いたいことを全て言い終えたアカツキは、食べ終わった食器を持って立ち上がると、「先に戻るわ」と言い残して去っていった。その後ろ姿を見送ってから、僕も急いで食事を済ませようと箸を動かし始めた。そんな僕達の様子をヴィッセル指揮官が見つめていたのは知らずに。

 *

 共同防衛省の独身職員は、緊急事態に備えるため社宅に住まなければならない。その社宅は共同防衛省と同じ埋立地に建てられており、共同防衛省まで徒歩五分もかからない場所にある。経年により少し黄ばんだ白い建物で、独身者用なのでワンルームにキッチンとバスルームがついた狭い作りで、生活のための必要設備だけ揃えたというレベルだ。キッチンはかろうじて二口コンロがあるが、収納スペースが小さくて、早く出たいと思っている職員も多いと聞く。こればかりは規則なのでどうしようもないことで、役職者や既婚者になったら都内のマンションを借りることができる仕組みだ。僕とアカツキは第三棟の二階の部屋を割り当てられている。同じ部署だと近くの部屋に配置されることが多いと聞いたことがある。

 金曜日の仕事終わりにスーツからシャツとゆるいズボンに着替えて、ストックしてあるお菓子を持ってアカツキの部屋へ向かう。今日は金曜日なので、繁忙期の経理部といっても早めに帰る人も多く、僕は八時前に仕事を終えた。アカツキはもっと早めに仕事を切り上げていた。

 明日と明後日は土日ではあるが予定がないので、今日は少しくらい夜更かしをしても大丈夫だと思う。僕は人付き合いが下手で、同期やアカツキ以外の経理部員と話すことは滅多にない。話しかけられればそれなりに応対するのだが、自分から話しかけることが苦手だ。それに、僕がアカツキ以外の人と話すと、僕達の関係がばれるのではないかと危惧したアカツキがそれとなく割り込んできて、話しを終わらせてしまうのだ。だから、入省して二年経ってもアカツキ以外で親しくしている人はいない。

 休日は一人で本を読んでいることが多く、専らインドア派だ。しかし、アカツキと付き合い始めて、夜は映画を見ることが多くなり、この時間が唯一、他人と深くコミュニケーションをとる時間だといえる。ただ、これまで他人と密な関係を持ったことがないため、これが良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのかは分からない。

 そうやって取り止めのないことを考えながら、自分の部屋と全く同じ見た目の扉を開け、隣にあるアカツキの部屋に入ると、スウェットを着たアカツキがいた。

「お、来たな。呼びに行こうかと思ったたんだ」

「うん。お邪魔します。お菓子は持ってきたよ。アカツキが好きなピザ味」

「サンキュ。今日はどれ見る?」

「えー、と、アカツキに任せるよ」

 僕が言い淀んだ理由は、アカツキの好む映画ジャンルが偏っているからだ。

 アカツキは狼獣人を嫌っているせいか、この部屋で見る映画は狼獣人が虐げられる映画ばかりなのだ。血飛沫が上がることも多く、好みが分かれる作品ばかりだと思う。けれど、どんな映画がいいなんて僕に言う資格はないと思うので、自分からリクエストをしたことはない。そんな僕の様子を気にも止めずにアカツキは、嬉しそうにDVDを漁り始めた。そして、適当に選んだものをセットしてから、僕達はソファに並んで座った。

 そうして始まった映画は予想通り、和平条約を結ぶ頃の日本とウルフワムの対決を描いたものだった。日本人が狼獣人達に向かって、銃や爆弾を放つ様子が描かれている。

 僕は狼獣人に対して敵愾心を持ったことはなく、狼獣人が苦しむ様子を生々しく描いた映画を嬉々としていることはできずに、持ってきたお菓子をぽつりぽつりと摘みながら過ごしている。

 物語は中盤に差し掛かり、史実とは異なり、日本がウルフワムに打ち勝ち、ウルフワムの領土を占領するというかなり偏ったストーリーのような気がする。"気がする"というのは、不思議なことにアカツキが選んだ映画を見ていると、気が遠くなり、脳が酸欠になったように動きを止めるのだ。

 そして、あっという間に映画が終わっている。それなのに、狼獣人が無惨に人を殺すシーンや日本人が勝利するシーンだけは頭の中に鮮明に残っているのだ。映画を見終わった後に軽い頭痛と吐き気がするのもいつものことだ。そして、エンドロールが流れて、アカツキは満足したように大きく伸びをした瞬間、魔法が解けたかのように意識がはっきりする。

「あー、面白かった。やっぱり、俺、こういうのが好きだわ」

「そ、そっか……」

「どうかしたか?」

 僕は吐き気を感じながらも、それをお菓子と一緒に飲み込む。

「あ、いや、なんでもないよ」

「ふうん。ま、でも、野蛮な生き物に人間が酷使されるなんておかしいよな」

 アカツキは平然と、しかしどこか仄暗い目をしながら言う。野蛮な生き物とは狼獣人のことだろうか。そう思っても、それを聞いてしまえば後戻りできないところまで進んでしまうような気がして、尋ねることが出来ない。

「……アカツキ」

「いや、なんでもない。それじゃあ、メシにするか。カップ麺でいいよな」

「う、うん」

 結局、アカツキは僕の返事を聞かずに立ち上がってキッチンの方へ歩いていった。僕も立ち上がり、後を追う。そうすると、一緒に飲もうと思って買っておいた炭酸飲料を自分の部屋に忘れてきてしまったことに気がついた。

「ア、アカツキ。僕、飲み物を忘れてきたから持ってくるね」

「あ、おい」

 どうせ隣の部屋に行くだけなので、アカツキの返事も聞かずに部屋の外へ出る。そうすると、薄暗い共用部の廊下に、僕の部屋の隣の部屋に入ろうとしている人物がいるのが見えた。その部屋はずっと空室だったので、不思議に思って見つめると、そこにいたのは思いもよらない人だった。

「ヴィッセル指揮官……っ!どうしてこのフロアに?」

 思わず呟いた僕の声を聞いて、ヴィッセル指揮官が振り返る。仕事終わりで黒い隊服を着ているが、少し疲れているのか毛並みの艶が少しくすんでいる。そして、僕の姿を見ると、とても驚いた表情を見せた。確かに、ヴィッセル指揮官は独身者のため、この社宅にいてもおかしくはないのだが、そうなると最上階の部屋を割り当てられることになるだろうし、そもそも指揮官なので都内に別のマンションを借りているはずだ。

「ヒビキ?!……っくそ、バロンめ」

 ヴィッセル指揮官は驚いて僕の名を呼ぶものの、すぐに何かに思い至ったようで、ドルーガ副指揮官の名前を呼ぶ。そのことに軽い胸の痛みを覚えるが、その痛みを無視して、僕は尋ねた。

「ど、どうかされましたか?」

「いや、ヒビキはこの部屋の隣に住んでいるのか?」

「はい。入省してからずっとこの部屋です」

「そうか……」

「あ、あの、ヴィッセル指揮官はなぜここにいらっしゃるんですか?ここは若手のフロアです」

「俺が住んでいるマンションが改装することになって、その間の仮住まいだ。自分で探す暇がなくて、バロンに頼んでいたんだが、空いている部屋がここしかないと言われてな」

「そ、うですか……」

 この社宅が満室になるほど人気だとは知らなかったが、ヴィッセル指揮官が隣人になることが俄に信じられずに立ちすくんでいると、後ろからアカツキの声が聞こえた。

「ヒビキ、うちにコーラがあるぞ……って、ああ、指揮官じゃないですか」

「タマル」

 アカツキはヴィッセル指揮官を見るなり、少しだけ声のトーンを落とし、なぜか揶揄っているような言葉尻で話しかけた。これまでアカツキの振る舞いからすると、狼獣人に対してそういう態度をとることは不思議ではない。しかし、アカツキに話しかけられたヴィッセル指揮官もなぜか不機嫌そうな顔をしている。それに、アカツキのことはファミリーネームで呼ぶのだと気づく。二人からお互いに対する嫌悪感が透けて見え、間に挟まれた僕の背筋に冷や汗が垂れる。

「君達の部屋は隣同士なのか」

「そうですよ。恋人同士なのでとても助かってます」

 アカツキはどこか挑戦的に笑い、ヴィッセル指揮官は眉間に皺を寄せている。どこかピンとはった糸のような緊張感を感じる。その雰囲気の悪さに戸惑いながら、僕が口を開こうとすると、ヴィッセル指揮官の口元から、何かを威嚇するようなグルルッと言う不思議な音が聞こえたような気がする。ヴィッセル指揮官の方を見ると、パッと目を逸らされてしまった。

「……そうか。休みだからといって羽目を外しすぎないように」

「あ、はい」

 ヴィッセル指揮官は、指揮官らしく僕達を諌めてから自分の部屋に消えていった。アカツキはその後ろ姿を見つめている。その瞳に先ほどの仄暗い光が差したように見えて、僕はアカツキに声をかける。

「ア、アカツキ?」

「……ほら、コーラ。早く戻ろう」

「あ、うん」

 アカツキは僕の声を聞き、すぐさま剣呑な顔を引っ込めて、いつも通りの様子で僕の手を引っ張って、部屋に入った。僕は違和感を感じつつも、アカツキに従うことにした。

 僕の隣人になったヴィッセル指揮官は優しくて仕事ができる、僕の憧れの上司だ。僕は昔、ヴィッセル指揮官と会話をしたことがある。僕が共同防衛省に入ったばかりの頃、経理の仕事についていけず、残業することが多かった。入省したばかりの僕は課長から頼まれた仕事が終わらずに、夜遅くまでパソコンを睨みつけながら仕事をしていた。当時の上司だった課長は丁寧に教えてくれるのだが、経験が違いすぎて素人の僕には直ぐには理解できず、それでも課長と同じレベルの仕事をしようと思って、四苦八苦していたのだ。その日も、一人だけ残り、経費精算に格闘していた。課長は家族の誕生日だということで帰ってしまったし、先輩達はみんな忙しいから手伝ってもらうこともできなかった。

 ふと時計を見ると十時を過ぎており、そろそろ帰らなければならないと思うのに、手元の仕事は全く進んでいなかった。疲れというものは恐ろしく、人をネガティブにさせる。その日、僕は減らない仕事を見て、仕事に向いていないのかもと思ってしまい、なぜか絶望的な気持ちになってしまった。それでも誰かに相談することも出来ず、頭を冷やすために十分だけ休憩室で休むことにした。共同防衛省の休憩室にはいくつかの長椅子と自動販売機があり、そこで冷たい飲み物でも買って頭を整理しようと思ったのだ。

 休憩室の自動販売機で缶コーヒーを買って長椅子に座っていると、誰かが休憩室に入ってきたことに気がついた。顔を上げると、そこにはヴィッセル指揮官がいた。入省式の時に壇上で挨拶をしていたので顔は知っていたのだ。ものすごく偉い人が入ってきたことで僕は一気に緊張してしまう。けれど、なぜかヴィッセル指揮官も僕を見て目を見開いている。そして、彼は僕の方へ近づいてきた。狼獣人は上下関係に厳しいので、新人の僕から挨拶をした方がいいと思い、口を開く。

「えっと……、お疲れ様です」

「君は……」

 僕の側までやって来たヴィッセル指揮官の瞳孔が開いているような気がするが、きっと気のせいだろう。

「今年入省したヒビキ・ホンマです。……ここにいたら、邪魔ですよね。すみません。すぐ戻ります」

「いや、待ってくれ。部署はどこだ」

 ヴィッセル指揮官は戻ろうとした僕の手を掴みながら、更に言葉を続ける。僕は何かしでかしてしまったのかとおそるおそる回答する。

「えっ? えっと、経理部です……」

「私は総括指揮官のガムラ・ヴィッセルだ。少し話しをしていかないか。入ったばかりの子がこの時間まで残業している理由も気になるから」

「いえ、あの……、それは……」

 その言葉を聞いて僕は戸惑った。心配してくれているのは嬉しいが、こんなに偉い人に僕の悩みなんて話せるわけがない。それに、そもそも僕の悩みなんて、指揮官から見たらちっぽけなものだ。そんなことを考えているうちに、ヴィッセル指揮官は僕の隣に座る。

「遠慮しないでくれ」

 そう言って、ヴィッセル指揮官は微笑んだ。その瞳が真摯な光を映していて、僕はなぜかこの人になら悩みを打ち明けてもいいかもしれないと思えた。最初は緊張していたが、ヴィッセル指揮官の相槌がとても自然で、次第に緊張が解れて、仕事の悩みを打ち明けた。彼は少し考えてから「課長が指導役というのは駄目だな。二、三年上の先輩から教えてもらった方が効率がいいだろう。私の方から経理部長に言っておこう」と言った。

 僕は他人に話したことで自分の考えを整理できて、それだけで少し気分が明るくなっていたのだが、ヴィッセル指揮官が僕の悩みを否定せずにアドバイスをくれたことにも感動していた。僕達は取り止めもなく色々な話をした。仕事のことだけでなくプライベートなことも話し、彼も自分のことを教えてくれた。彼は僕よりも八つ年上であり、ウルフワム出身で特に体術が得意なことなどを教えてくれた。僕からも、本を読むのが好きなことや映画も詳しくないが興味があることなどを話した。僕達は気づけば一時間以上も話をしており、それに気がついたヴィッセル指揮官が苦笑して止めなければもっと話していたかもしれない。それほど心地の良い時間だった。その時間の終わりにヴィッセル指揮官はこう言った。

「ヒビキ、私にできることがあれば、いつでも連絡をくれ。君の力になりたいんだ」

 その言葉から、一介の新入職員をここまで気にかけてくれるヴィッセル指揮官の懐の深さに感じて、僕達は別れた。そして、ヴィッセル指揮官が掛け合ってくれたのか、課長から直接指導されることはなくなり、僕の指導役にアカツキがつくことになった。そしてアカツキが指導役になり半年が経った頃、カモフラージュで付き合ってほしいと言われて、今に至っている。

 アカツキの教え方はとても上手く、僕の経理スキルは少しマシになった。僕はそのおかげで、ヴィッセル指揮官と話した休憩室の夜から残業することが少なくなり、あの夜以来休憩室に行くことはなかった。当然、ヴィッセル指揮官と話す機会もなかった。

 そして、いつだったかは覚えていないが、ヴィッセル指揮官と目が合うと逸らされるということが続いて、僕は知らない間に彼に失礼なことをしてしまったのかもしれないと思い、僕から話しかけるなんて馬鹿げたことは考えなくなった。けれど、そのヴィッセル指揮官が隣に住んでいるのだと思ったら、なんとなく落ち着かない気持ちになった。

 けれど、彼は隣りの部屋に滅多に帰ってこないようだ。社宅の壁は薄いので、隣りの部屋の扉が開閉する音は結構響く。それなのに、ヴィッセル指揮官が住む部屋の扉の開閉音を聞いたのは、一月経っても数回ほどだった。それも僕が寝ようとする頃、ほとんど日付が変わるころに聞こえた。特に金曜日から日曜日にかけては、扉が開く音が一度もしなかったように思う。

 土日はアカツキも外出することが多く、僕は専ら家で本を読んでいる。両隣りの部屋から生活音が聞こえないので、僕の部屋は静寂に包まれている。

 ヴィッセル指揮官は仕事が忙しいのだとは思うが、もしかすると、隣の部屋にいない時は仲の良いドルーガ副指揮官の部屋に行っているのかもしれないと思うと、なぜか腹の底がチリチリと焼けるような心地がする。

 そして、ヴィッセル指揮官が隣に引っ越して来てからの一月の間に変わったことがもう一つある。それは、経理部の部長と課長が異動になり、狼獣人の部長と課長になったことだ。これまで経理部の管理職は日本人しかいなかったので、大きな変化だ。僕は狼獣人が上司であっても気にならないのだが、狼獣人に対して忌避感を持っているアカツキはことあるごとに部長や課長とぶつかっていた。

「タマル、その態度は何だ!」

「態度よりも仕事の内容で見てくださいよ。ミスはしてませんから」

 狼獣人は上下関係に厳しい人が多く、新しくやってきた課長もそのようだ。そんな彼に対して、アカツキは反抗的な態度を取っている。それを指導しようとする課長と言い争うのは日常茶飯事で、言い争う声というのは周りに悪い影響を与えるのか、経理部の雰囲気はどことなく荒んでしまっている。アカツキは何度も怒鳴られて、心底嫌そうな表情をしている。僕としては、これまでお世話になっているアカツキが課長から怒られるところは見たくない。どうすればいいのか悩む日々が続く中、課長が席を外している時に、アカツキが僕のもとへやって来た。少し目が血走っており、心配だ。

「ヒビキ!今日の仕事終わりに、俺の部屋まで来てくれないか?二人で話したいことがある」

「今日?うん、分かった……」

 アカツキは目を爛々と輝かせているものの、どこか正気を感じさせず、僕はざわつく胸の内を隠して頷いた。

 そして、仕事終わりにアカツキの部屋へ行った。部屋に入り、いつものソファに座った途端、アカツキは僕の肩をぐっと掴んで、興奮したように話しだした。

「ヒビキ。ヒビキは俺の味方?」

 アカツキから真剣な顔でそう聞かれて、最近やってきた課長とのトラブルのことを思い悩んでいるのだと思い、アカツキを擁護する。

「え?う、うん。アカツキの味方をしたいと思ってるよ」

「そうか……。じゃあ、お前なら分かってくれるよな。俺、いいや、俺達はようやくウルフワムの連中を駆逐する方法を見つけたんだ」

「え?」

「俺達の日本をウルフワムから取り返すんだ。ただ、そのためには、ヒビキの協力が必要なんだ」

「なに、言って……」

 アカツキは僕の小さな声など聞こえないかのように、熱に浮かされたような口調で続ける。その目は、いつか見た仄暗い光を移している。

「俺はウルフワム打倒連合軍の一員で、ウルフワムを倒すためにスパイとしてこの会社に潜入していたんだ。黙っていて悪かった。だけど、狼の奴ら、俺達を奴隷のようにこき使っておいて、自分達だけ良い暮らしをしてるなんて許せないだろう?」

「……っ!?」

 アカツキの言葉に衝撃を受け、僕は目を見開く。ウルフワム打倒連行軍は、日本がウルフワムに事実上支配されて以来、アンダーグラウンドな世界で活動を続けている、いわゆるテロ組織だ。まさかアカツキがウルフワム打倒連合軍からのスパイだったなんて、信じられない。けれど確かに、思い返してみれば、アカツキは妙に手際よく仕事をしていた。あれは慣れていたというより、あらかじめ訓練を受けていたからできたことだったのだろうか。アカツキは僕の動揺を意に介さず話し続ける。

「だから、ヴィッセル指揮官から国防に関する情報を奪い取って隙を見て狼野郎を駆逐する。日本人が日本のトップに立つんだ。それこそが国として正しいあり方だ。そうだろ?そのゴールがあるからこそ、こんな理不尽な差別とも戦える」

「ア、カツキはどうして、そんなことを?」

 いきなり告げられた衝撃の事実に声が掠れる。だが、僕はその衝撃に加えて、くらくらと眩暈がして気が多くなる。お酒を飲んだ時のように感覚が鈍く、若干呂律が怪しくなっている。僕の質問に対して、どこかアカツキはどこか悲しげに微笑むが、その問いに答えてくれることはなかった。

「……ヒビキ、頼む。俺に協力してくれないか。俺にはお前しかいないんだ」

 その真摯な表情に僕は思わず息を飲む。酩酊時のように判断する能力が落ちているが、彼の言葉は僕のどこかを満たしたような気がして胸の奥が震えた。それと同時に頭が鈍く痛む。必要とされなかった僕でも出来ることがあるのだと、そう思った瞬間、僕は夢現のままアカツキの言葉に頷いていた。

「……僕にできることなら」

「っ!ありがとう!ヒビキ」

 アカツキは満面の笑みを浮かべて僕を抱きしめる。その腕の中は暖かくて、なんだか泣きたい気持ちになってしまった。もし僕に兄がいたらこんな感じだったのだろうか。

 そして、眩暈がする中、不思議とよく通るアカツキの声で聞かされた作戦はこうだった。まず、僕がヴィッセル指揮官と親しくなって、彼のプライベートゾーンまで入り込む。そして、油断をさせたところで、機密情報を手に入れる。機密情報そのものを手に入れることが出来なくても、どのデータベースに保存されているのか程度を聞き出せれば十分ということだ。アカツキが欲しい情報は、まずは軍や軍兵器の配置図とそれが手薄になる時期とのことだ。他には、有事の際に共同防衛省の全ての活動を止める極秘パスワードがあるらしく、それが喉から手が出るほど欲しいということだった。ヴィッセル指揮官は共同防衛省の全てを指揮しているため、確かに彼ならばその情報を持っているだろう。けれど、僕とヴィッセル指揮官が親しくなることは不可能に近い。そう言うと、アカツキはこれまで見たことがないような軽薄な笑顔で僕を見た。

「いくらヴィッセル指揮官でも、セックスした後は無防備だろう」

「セ、セックスって、そんなの無理だよ……。僕にそんな魅力はないし、そもそも狼獣人はパートナーがいる人は絶対に好きにならないのは、アカツキも知ってるでしょう」

「いや、狼獣人が誰かのパートナーだと認識するのは、相手の匂いがついてからだと聞いたことがある。その匂いがいつ着くのか、人間の俺には分からないけど、ウルフワム打倒連合軍の研究者曰く、精子を何度か体内に取り込むと、相手の匂いが身体の奥に根付くんじゃないかと言ってたな」

「え……だったら」

「そう。俺とヒビキはセックスはしてないだろう。だから、ヒビキは、狼獣人どもにとって、彼氏がいるけど純潔は散らされてない美味そうなご馳走に見えるんじゃないか。現に、ヒビキを物欲しげに見る狼野郎共がどれだけいたことか」

「そんなこと、知らないよ」

 アカツキから訳が分からないことを聞かされて、頭がパニックになる。

「ヒビキは俺から見ても綺麗な顔してるよ。楚々とした可愛さって感じがする。俺は異性愛者だから、弟にしか見えないけど。それに、ヴィッセル指揮官はニ年くらい前までは来るもの拒まずで遊んでいたらしい。だから、セフレくらいにはなれるんじゃないか」

 弟と言われて、気持ちが湧き立つものの、その後に続いた言葉にはどう反応していいか分からずに、困惑していると、アカツキはぽつりと呟いた。

「……そうじゃないと、お前に話しかけた意味がない」

「え?」

 一言何かを呟いた瞬間、兄のように頼りがいのあるアカツキが急に知らない人になってしまったような気がして、寒くもないのに鳥肌が立ってしまった。思わず聞き返すと、「まあセックスまではしなくても、狼獣人の庇護欲を刺激して、泣いて悲しんで、同情を誘って油断させたらいいんじゃないか」と言われる。目を白黒させている僕を見て、アカツキは困ったように笑う。

「僕じゃだめですかとか言って、縋りついて泣け。それで、ヒビキを抱けると思ったら、案外簡単に機密情報を話すかもしれない。ただ、ヴィッセル指揮官の側には常に人がいるから、時間かけたりして、バレないように気をつけろよ」

「そ、そんなことありえない……痛っ……」

 アカツキは僕を見て笑う。その様子を見て、急に酷くなってきた頭痛に、僕は少しずつ思考を曇らせていった。

「方法は何でもいい。俺はお前を信じてるよ」

 アカツキはなぜか僕が逆らうことはないと思っているようだ。僕は、急に世界で一人ぼっちになってしまったような心許なさを感じた。

 *

 アカツキから衝撃的な話を聞いてから、僕は自分がどうすればいいのか分からないままだった。アカツキが僕を頼っている以上、何かしてあげたいと思うのだが、最近アカツキのことを考えると何故か思考が鈍くなる。そんな不調を振り払うかのように、僕はヴィッセル指揮官の様子を観察し始めた。

 観察を始めて気がついたことは、彼はとても多忙ということだ。彼の執務室には人が終始立ち替わり入れ替わりで入っており、休む暇はないように見える。彼が一人になる時間はかなり限られているようだ。

「アカツキが言う通り、本当に忙しいんだな……」

 小さく呟いて考えていると、経理部の脇の廊下で、ヴィッセル指揮官が部下らしき男性と話しながら書類を手渡している様子を見かけた。その男性は、黒い毛並みの美しい狼獣人だった。彼はヴィッセル指揮官に何かを話しているようだ。

「……では、この案件は来週の会議でお伝えします」

「あぁ、頼む」

 短く、それでもストレートに伝え、それを聞いた部下の男性は踵を返した。彼らの様子を見て、やはりヴィッセル指揮官は優れたリーダーであると感じる。狼獣人は上下関係に厳しいが、能力のない上司には絶対に従わないと聞いたことがある。彼は皆から認められているのだろう。

 また、食堂や休憩室に行くようにして、人の噂話からヴィッセル指揮官の近況を把握するようにした。本人のいない場所でも、ヴィッセル指揮官を悪く言う人はおらず、僕は感心してしまう。

 一方で、彼の恋人関係については疑問を持っている人が多いようだ。ウルフワムでは二十代でパートナー、日本でいう結婚相手を持つのが一般的であるのに、未だに独身であるため、親戚筋からひっきりなしに縁談が持ち込まれているようなのだが、全て断っているそうだ。また、二年前までは来るもの拒まずで関係を持っていたというがそれがぴたりと止んだらしい。そのことから、ヴィッセル指揮官には想い人がいて、叶わない恋をしているのではないかという憶測が立っていることも耳にした。

そして、ヴィッセル指揮官が片思いをしている相手とは、ちょうど二年前に共同防衛省に赴任したドールガ副指揮官ではないかと言われている。しかし、ドールガ副指揮官は既に日本人の男性とパートナーになってしまったそうだ。あんな格好良い人が叶わない恋なんてありえないと思ったけれど、時期的にピタリと合うことから、否定できない気がした。

 そんな周辺情報を少しずつ集めるも、ヴィッセル指揮官と直接話しをする時間もなく、途方に暮れていた。それにアカツキは最近仕事を休みがちで、社宅にもいないのでどうすればいいのか聞く機会がない。今思えば、アカツキは、金曜日の夜はよく映画鑑賞に誘ってくれたが、土日は不在にしていることが多かった。土日にウルフワム打倒連合軍の活動に参加していたのかもしれない。

 アカツキがウルフワム打倒連合軍に入っていたことを知ってから、僕は改めてウルフワム打倒連合軍について調べてみた。ウルフワム打倒連合軍は、日本がウルフワムに事実上支配された時から、アンダーグラウンドなテロ組織として活動しているようだ。過去には死者を出したテロ行為の首謀者として指名手配されている人物もいる。そして、連合軍に所属する人の多くは、狼獣人に否定的で差別意識があると聞いたことがある。

 アカツキがそんな危険な組織に所属していると分かった時点で、人事部か上司に相談するべきなのかもしれない。けれど、アカツキのことを他人に相談することを想像すると、急に頭痛がして耐えきれずにしゃがみ込んでしまい、立ち上がった時には相談しようという考えがどこかへいってしまうのだ。僕は突然の体調不良に戸惑いつつも、追い討ちをかけるようにアカツキからメールが届いた。

(ヒビキ、俺達はもう家族みたいなものだろう。ヴィッセルから機密情報を聞き出してくれ。俺はお前を信じてる)

 メールにはなぜか可愛い猫の画像ファイルが添付されており、クリックすると猫が動いた。画像ファイルが付いていた理由は分からなかったが、"家族"というキーワードを目にして、僕はようやく何か動かなければと思った。アカツキは僕を家族のように信頼してくれているのだから。

 そして、焦燥に駆られた僕が、息を潜めて、ヴィッセル指揮官側の部屋の扉の音を聞き漏らさないようにしていると、ガチャリと鍵が開いた音がした。この社宅は鍵の部分が重く、異様に大きな音がするのだ。それを聞いて、僕は不自然にならないように少し待ち、ワイシャツにスラックスという仕事終わりのような出立ちで隣の部屋の前に立つ。そして、震える手で社宅の安っぽいインターホンを鳴らした。そうすると、ピンポーンという機械的な音が途中で切れて、部屋の主がカメラ越しから僕のことを見ているのが分かる。僕はヴィッセル指揮官から話しかけられる前に自分から話し出す。

「ヴィッセル指揮官、すみません。ヒビキ・ホンマです。いらっしゃるようでしたら、いま少しお時間いただけないでしょうか」

「ヒビキ……?……少し待っていろ」

 そう言われた後、ガチャリと扉が開いて顔を出したのはヴィッセル指揮官だった。帰宅して間もないので、まだ隊服を着ているようだが、胸元は寛げているので、そこからふわりとした毛が見えて、なぜだかどきりと鼓動が跳ねた。

「あの、ヴィッセル指揮官、ご相談したいことがあります。ここでは話せないので、中に入ってもよろしいでしょうか……?」

「いきなりどうした。仕事のことか」

 ヴィッセル指揮官は玄関から退かずに僕を見つめている。

「い、いえ……」

 ヴィッセル指揮官が戸惑っているのが分かり、僕は内心焦る。確かに、これまでろくに話したことがない部下が突然家に来て、相談したいことがあるから中に入れてくれと言うなんておかしいと思うだろう。どう言えばいいのかまごついている僕を見て、ヴィッセル指揮官は目を細めて尋ねる。

「……タマルはどうした」

 いきなり聞かれたのはアカツキのことで、ここのところ頭を悩ませている存在を指摘されて思わず吃ってしまう。

「え?ア、アカツキ、は……あの……」

「……入りなさい」

 言い淀む僕を見て、何かを察したのかヴィッセル指揮官は僕を部屋の中へ迎え入れてくれる。

 ワンルームの部屋の中にはベッドとテレビといった最低限の家具と家電しかない。その中で使用した形跡があるのはベッドくらいで、この部屋にいる時間はとても少ないのだと言うことが分かる。それでも家族や仲間を大切にするというウルフワムらしく、テレビ台のところには家族写真が置いてあった。その中で微笑む幼いヴィッセル指揮官を見つけて、彼が大切に育てられてきたことが分かる。僕とは正反対の太陽のような人なのだ。

「ソファなんて洒落たものがなくて悪い。ベッドにでも座ってくれ。何か飲むか?」

「……いえ」

 僕は促されるままベッドの端っこに腰掛ける。アカツキ以外の誰かの家にこんな風に上がること自体が初めてで緊張してしまう。しかも、相手はヴィッセル指揮官だ。いつもとは違う状況に心臓が激しく脈打つ。それを落ち着けようと深呼吸を繰り返すと、ヴィッセル指揮官なぜか少しだけ苦笑いをしながら話しかけてくる。

「君とこんな風に話すのは休憩室で出会った時以来だな」

 そう言われて、休憩室で会話したことを覚えていたのは僕だけではなかったのだと驚くと同時に歓喜する。ヴィッセル指揮官がそんな顔をする理由は分からないけれど。

「それで、こんな時間にどうしたんだ?タマルが心配するだろう」

「え、っと、あの……」

 その喜びや戸惑いよりも、今ヴィッセル指揮官に対してどう答えればいいのか思い悩んで言い淀む。ヴィッセル指揮官に対してだけでなく、僕自身がどうすればいいのか、ここのところ考えるのはそればかりだ。謎の体調不良と相まって、答えのないその問いに悩んでいることが辛くなり、ぽろりと涙が出てきてしまった。けれど、僕がこの人を謀るのは決まっているのだ。このことがバレたら、このあたたくて素晴らしい人からは確実に嫌われるだろう。僕が決めたことなのに、行き場のない思いが胸の中から溢れてしまう。

「っすみません」

 それを見て、ヴィッセル指揮官はそれを見て、ヴィッセル指揮官は驚いた顔をして慌てている。

「ど、どうした。どこか痛いのか」

「ち、違います……。あ、あれ……すみません」

 自分でもどうして泣いているのか分からず、涙を止めようとするのだが止まらない。ヴィッセル指揮官はそんな僕の隣に腰掛け、僕の背中を撫でてくれる。彼の手は大きくて、撫でられるだけで安心できるような力強さを感じる。

「何があったんだ」

「す、すみません……。僕、彼の気持ちが分からなくて……」

「ああ……」

 ヴィッセル指揮官は何故か少し辛そうに、僕の言葉を遮らずに聞いてくれる。辛そうな表情の理由は分からないが、話を聞いてくれようとするその姿勢に僕は言いようのない安心感を感じる

「頭の中がぐちゃぐちゃで……。僕、どうしたらいいのか……」

 言葉には出来ないが、アカツキがウルフワム打倒連合軍に入っていること、そしてそのアカツキからスパイ活動をするように言われていること、アカツキの言葉に抗えない自分、そんな目まぐるしい変化を頭の中でまとめきれずに、つい本音が出てしまう。

「……タマルが浮気でもしたのか?」

 そんな僕の様子を見て、ヴィッセル指揮官が意を決したように口を開く。想定外のことを言われて、一瞬涙が止まる。その様子を見て、ヴィッセル指揮官はそれが当たっていたと思ったようで、牙を出し、苦々しい顔をする。

「パートナーがいながら浮気など許せん。しかも、ヒビキのようなパートナーがいながら」

 ヴィッセル指揮官は、僕を案じて怒ってくれていることが伝わってきた。

「あの……」

「どうした?」

「……あの時の言葉はまだ有効ですか」

 その様子を見て、僕は自分の胸の内を整理できずに、ただ言葉だけが口からこぼれ落ちる。ヴィッセル指揮官が休憩室で言ってくれた、「力になりたいんだ」というあたたかな言葉が胸の奥にずっと残っていたのだ。

 その時、アカツキの家族という言葉とヴィッセル指揮官に対するが憧れや思慕が、僕の中で一気に膨れ上がり、僕は、横に座るヴィッセル指揮官の胸にすがりついた。

「何を……っ!」

 ヴィッセル指揮官は驚いたようだが、僕を突き放すことはなかった。僕の腕を包むように掴んでいるが、そこに拒絶は感じなかった。

 僕はヴィッセル指揮官の広い胸で息をつく。その瞬間、ヴィッセル指揮官の匂いがした。お日様の下で干した洗濯物のようなあたたかな匂いで、僕はこんな状況なのになぜかほっとした気持ちになった。

 ヴィッセル指揮官の胸に飛び込んだのは、アカツキの指示通りに行動したのか、自発的に救いを求めたのか自分でも分からない。上を向くと僕を見下ろすヴィッセル指揮官の静かな湖のように青く澄んだ瞳があった。その瞳が大きく見開いたのを見つめて、震える声で伝える。

「……っヒビキ?! 」

「僕っ、ぼく、寂しくてっ……」

「何を言って……」

「僕、じゃだめですか?」

 必死にアカツキから言われた言葉を繰り返す。カタカタと手が震えるのが分かる。ヴィッセル指揮官は、グッと目を見開いた。思わず縋りついた胸がびくりと震えたのが伝わる。彼の部下を思う純粋な気持ちを踏み躙るような真似をしていることは理解している。アカツキの顔とヴィッセル指揮官の顔が交互に浮かんでは消える。

「……っやめなさい。ヒビキは混乱しているだけだ。身体を安売りするような真似はするな。……私でよければ話を聞くから」

「……で、でも」

 身体を安売りするとはよく分からないが、アカツキから指示があったのはここまでだ。断られた時になんて言おうかなんて考えておらず、頭の中でぐるぐると言葉が浮かんでは消えていく。その中でぽろりと漏れた言葉は、僕の本音だった。

「あの時、力になるって言ってくれて、とても嬉しかったんです……」

「それは……」

「僕、寂しくて……だから」

 僕はヴィッセル指揮官の胸から離れ、脇にある彼の手両手をぎゅっと握りしめる。僕の口からは繰り返し寂しいという言葉が出てくる。これは誰の言葉だろう。アカツキはこんなことを言えと指示はしなかったのに。僕は、自分が自分でなくなってしまったような心地がした。

 その言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は観念したように息を吐きながら唸る。手を振り解かれることはなかった。その短くも長い時間の後、ヴィッセル指揮官は僕の目を見て言った。

「……君達の関係がどうなっているのか分からないが、ヒビキが望むのなら、俺が側にいよう」

「……ほんと、ですか」

「ただし、タマルとの仲が戻るまでだ。それでもいいか」

「……はい」

 泣き止まない僕をどう思っているのか分からないが、ヴィッセル指揮官の言葉は僕を突き放すことなく、手を握り返してくれた。僕はそのことが嬉しくて、ヴィッセル指揮官の手を握りながら、しばらくそのままでいた。僕の薬指にある指輪が鈍く輝いたのは見ないふりをして。

 *

 あの後、ヴィッセル指揮官は、僕が泣き止むまでずっと待っていてくれた。そして、僕が落ち着くと僕から身体を離して、「今日はもう戻りなさい」と言った。その上で、「関係を続けるのであれば、一週間後の夜にまたこの部屋に来るように」と言われた。そうやって選択肢を残してくれるのは、僕が錯乱して言ったことだと思っているからだろう。

 ヴィッセル指揮官に泣きついた時、僕は咄嗟に寂しいと言ってしまった。けれど、あの言葉は僕の本音だ。僕は幼い頃からずっと、纏わりつく寂しさに悩んでいる。僕の寂しさの根源は分かっていても、僕が親に捨てられた子供だからだ。僕の親は、僕を産んですぐ育児放棄をしたらしい。"らしい"というのは、親と一緒にいた記憶がないほど小さな赤ん坊の時に捨てられたからだ。それから、僕はずっと国の施設で育った。

 ウルフワムに支配される前の日本は家族の絆は緩く、成人したら一人暮らしをし、児童養護施設も複数存在したと聞いたことがある。けれど、僕が生まれた頃には、家族を大切にするというウルフワムの文化が日本には根付いていた。ウルフワムの人々からすると、子供を捨てるなんてありえないことで、そんな非常識な親から生まれた子供なんて不幸だと周りの大人は口を揃えて言った。

 現に、僕がいた身寄りのない子供達を保護する施設は全国に一つしかなく、そこにいた子供は二十人程度だった。しかも僕以外の子は、親が死別してしまい、親戚もいないために泣く泣く施設にやってきていた子達で、親に捨てられるというあり得ない出来事によって施設にやって来た僕は、疫病神のような縁起の良くないものだと見られることが多かった。

 そんな環境で育ったために、僕は小さい頃から、世界でたった一人の不幸な人間なのだと思い込んでいた。僕は自分が幸せだと思ったことがないし、価値のある存在だとも思えない。だって、無条件の愛を注いでくれるはずの親にすら捨てられたのだから。いつも心にぽっかり穴が空いたような虚無感を抱えて、少しでも人に求められると嬉しくなって頑張ってしまうようになった。僕は人に頼られていると思うと、拒否できない。頼られていることで自分を必要としているのだと思ってしまうからだ。それがどんなに僕を蔑ろにしたものであっても、出来ることがあるならしたい。そうじゃないと捨てられてしまうから。ただ、暗くて人見知りする性格と親がいないという育ちのせいで、僕を頼る奇特な友達も出来なかったし、施設の先生にもあまり好かれていなかったと思うけれど。

 僕は自分に家族がいないことが、成長した今でも寂しくて仕方がないのだ。だから、アカツキが僕を家族のように思ってくれていると知って、その期待に応えたいと思ってしまう。

 そのアカツキに、ヴィッセル指揮官との間で起きたことことを話した方がいいのだろうかと考えながら出勤したところ、狼獣人の課長から「タマルは長期休暇を取る」と言われた。少し前に繁忙期が終わり、今は経理部の仕事は少ない。夏に入る少し手前なので、この時期に夏休みとしてまとめて休みを取る人も多い。課長もアカツキがいないと楽なのか、少し嬉しそうにしているように見える。長期休暇はいつまでか分からないが、確かアカツキの有給休暇は僕の同じく沢山残っているはずので、一ヶ月ほどは休むのかもしれない。何も聞いていなかったので少し驚いたけれど、もしかしたらウルフワム打倒連合軍の活動が入った可能性もある。メールをすべきだろうかと思ったけれど、なんだか気が進まずにいたらあっという間に日が経ってしまい、一週間後の金曜日になった。

 僕は少し罪悪感とヴィッセル指揮官とまた話せるという期待で、どことなくそわそわしている。いきなり部屋へ行っても大丈夫だろうか。何時頃行くのがいいのだろうか。もしかしてヴィッセル指揮官の方が嫌になって心変わりしてしまったらどうしよう。そんなことを考えながら、仕事用のデスクトップパソコンの画面を見つめていると職場用のチャットアカウントにメッセージが入った。このチャットアカウントには全職員分の連絡先が入っており、他部署の人とも気軽に連絡が取れるツールなのだが、アカツキ以外の人と話さない僕にチャットをくれる人はおらず、なんだろうと訝しむ。そして、そのチャットの内容を見て声をあげそうになってしまった。

(夜八時には部屋に戻る。俺の部屋に来るなら晩ご飯を一緒に食べよう)

 チャットをくれたのはヴィッセル指揮官だった。そこには部屋に行く時間が書かれており、僕がその時間に行ってもいいのだと理解できた。

(分かりました。八時に伺います。晩ご飯は何か買っていけばいいですか)

(いや、手ぶらで来てくれ)

 返事をすると、すぐに返信をくれる。僕はこういう風に誰かと帰る時間の連絡や晩ご飯の相談をしたことがなく、なんだか心のどこかがくすぐったくなり、こんな気持ちになるのは初めてだった。恥ずかしくなってきた。

心のどこかがふわふわとしてこんな気持ちになるのは初めてだった。

 

 *

 

「お邪魔します」

「……ああ」

 そして、僕は仕事を定時きっちりに終わらせると、急いで部屋に戻り、身なりを整えることにした。どういう服装で行けばいいのか悩んでいたら、あっという間に夜の八時になってしまい、慌ててヴィッセル指揮官の部屋を訪れた。服装は悩みに悩んだ結果、大きめの白いTシャツ黒のジーンズにした。インターホンを押すとしばらく経って扉が空いた。ヴィッセル指揮官はなぜか、僕を見て少し安堵したように見えた。そして、この前とは違い、すんなり僕を迎え入れてくれた。

 ヴィッセル指揮官はいつもの隊服を脱いで、黒のシャツとズボンを履いている。袖からは毛皮に覆われた太い腕が見えており、その僕にはない男らしさにどきりと胸が跳ねる。そんな格好良いヴィッセル指揮官は、僕が部屋へ入るなり、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「家で人と会う時に何をすればいいのか分からなくてな。とりあえず今日は一緒にご飯を作ってから映画でも見るのはどうだ」

「えっ」

 ヴィッセル指揮官の言葉に僕は二つの意味で驚く。一つはヴィッセル指揮官とご飯を作るとは想像もしておらず、コンビニ弁当でも買いに行くと思っていたのだ。もう一つは、ヴィッセル指揮官は少し前まで相手に困らないほど人気があったと聞いているのに、こういうことは慣れていないのだろうかとびっくりした。驚く僕を見てヴィッセル指揮官が口を開く。

「嫌か?」

「いえ……嬉しいです」

 けれど、彼と話しをして一緒に時間を過ごせるだけでもとても嬉しく、そのことを素直に伝える。僕の言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は嬉しそうな顔で笑った。そして「来てくれ」と言って歩き出した。着いた先は部屋の隅にある、小さな一人暮らし用のキッチンだ。僕の部屋にも同じものがある。流しは狭いがコンロは二口あるのだ。そして、そこには人参やじゃがいもなどの見覚えのある野菜が置かれていた。また、以前はベッドとテレビ台しかなかった部屋に、ローテーブルと小さなソファが増えていた。

「俺の作るカレーは家族から評判が良くてな。一緒に作ろう」

「は、はい。頑張ります」

 ヴィッセル指揮官が料理も出来るとは知らなかった。家族からの評判がいいということは一度や二度ではなく作っているのだろう。それに対して、僕は料理と言えるほどの料理を作れる腕前はなく、切って炒めるだけの料理しかできない。冷凍うどんをチンして麺つゆをかけて食べるだけの時もある。彼の足手まといにならないようにしなければと思うものの、手際よく包丁で人参の皮を剥くヴィッセル指揮官の姿は格好良くて見惚れてしまう。意外だけれど、少しも彼の魅力を損ねていないのだ。

「料理、されるんですね」

「たまにはな。普段は外食ばかりだが。ヒビキはどうだ」

「僕は本当に簡単なものを作って食べることが多いです。それかお弁当を買ってきて食べています。ヴィッセル指揮官みたいに料理が上手く出来ないので」

 僕の言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は苦笑いをして僕を嗜める。

「ヒビキ。今は肩書きで呼ぶのはやめてくれ。部下にカレーの作り方を教える野外訓練を思い出す」

「あ……」

 ヴィッセル指揮官の言葉はもっともだけど、僕はヴィッセル指揮官と親しくなる心の準備ができておらず、戸惑ってしまう。

「俺の名前を知らないのか」

 そんな僕の様子を見て、少し悲しげにされてしまい、慌てて否定する。

「そんなわけないです……!ガ、ガムラさん」

 そうすると、僕の反応が予想通りだったのか、ガムラさんは悲しげな顔は直ぐに消し去り、満足げに笑う。ふさふさの尻尾がゆらゆらと揺れており、かっこいいのに可愛くもあり、ドキドキしてしまう。

「今はそれでいいが、二人でいる時は敬語もなくていいんだぞ」

「えっ……?は、はい」

 そう言ってガムラさんはじゃがいもの皮を剥いていく。僕もお手伝いをしようとしたけど、じゃがいもの皮剥きというのは予想以上に難しいことが分かった。ガムラさんは、五ミリくらいある皮を量産する僕を見て、最初は驚いた顔をしていたけれど、直ぐにコツを教えてくれた。そうしているうちに、僕の包丁を使う手つきが危なげだったことを除いて、無事にカレーの下準備を終えることが出来た。今日はズッキーニやアスパラ、パプリカなども入れた夏野菜カレーだ。

「ヒビキはどんな料理が好きなんだ?」

「何でも食べます。ただ、唐辛子の辛さはどうしても苦手で」

「唐辛子は俺も苦手だ。鼻が効かなくなるからな」

 二人で取り止めのないことを話しながら調理をしているとあっという間に時間が過ぎていった。出来上がったカレーを皿に盛り付けて、ローテーブルに向かい合わせで座る。色とりどりの野菜達がとても美味しそうだ。

「「いただきます」」

 僕とガムラさんは同時に「いただきます」をしたので被ってしまったが、そんな些細なことも楽しく感じられる。

「ウルフワムの郷土料理は大体が大皿料理で、家族みんなで分け合って食べることが多いな。だから、割合を考えずに食べる奴はウルフワムでは嫌われる。気をつけろよ」

「っふ、あはは」

 そんなことを真面目な顔で言うガムラさんの様子が面白くて、つい吹き出してしまった。それを見たガムラさんは怒ることなく、笑ってくれる。穏やかな時間が嬉しくて、楽しくて、幸せだと思った。

 食事を終えて二人で食器を片付けた後は、新しく増えた小さなソファに座って映画を見ることになった。そのソファは、僕とヴィッセル指揮官が隣り合って座るとお互いの肩がピタリとくっつくほど小さい。このサイズだとヴィッセル指揮官だけで座ってもゆとりがあるとは言えないかもしれない。サイズが変だなと思っていると、ガムラさんがそれに気付いたのか口を開く。

ガムラさんが言うには、ドールガー副指揮官にソファを頼んだらこんなに小さいものが届いたと言う。ドルーガー副指揮官は、ガムラさんと同様にこれまでにないほど優秀だと言われている。それほどまでに有能な人がどうして、と不思議に思っていると、僕の考えていることが伝わったのか、ガムラさんはなぜか気まずそうにしていた。

 理由を聞けないうちに、ガムラさんは映像プレイヤーをセットし始めた。その映像プレイヤーは日本で販売しているものとは少し異なり、とても小さい。どこにディスクを入れるのだろうと思っていると、プレイヤから一筋の光が出てきて、その光が一瞬ガムラさんの瞳に吸い込まれたかと思うと、テレビ画面に映画のオープニングが映し出された。

「え……?」

「ああ。日本人には馴染みがないかもしれないな。ウルフワムでは瞳の虹彩にデータを入れて、それを瞬時に取り出せる技術がある。このプレイヤーはその技術を使ったものだ」

 僕にそんなことを教えてくれる友人がいなかったからかもしれないが、そんな技術があるなんて初めて知った。

「そんなことが出来るんですか。瞳にデータを入れるなんて、痛くはないですか」

「痛くはない。人間もそうだが、何かを思い浮かべる時、瞳の中というのは微細な動きをする。その動きと設定したデータが連動して、プレイヤーに映し出される仕組みだ。入れられるデータは無限で、セキュリティも万全だから、俺はよく使っているな」

 ガムラさんがそこまで言った時点で、オープニングが終わり、僕達は映画に集中し始めた。

 テレビ画面に映るのは、大きなドラゴンに立ち向かう騎士たちの姿だ。勇ましい音楽が流れてくる。仲間達を集めて、巨大な敵に立ち向かっていく姿は、ファンタジー映画のようでアクション映画のようでもある。アカツキの部屋では、ウルフワムと人間が対立する映画ばかり見ていたのでなんだか新鮮だ。

「この映画、とても面白いですね」

「ああ、人気があるようだ。何度もリメイクされているらしい」

 映画は中盤に差し掛かり、主人公の男が仲間たちと共に強大な敵に挑んでいく場面になった。僕もヴィッセル指揮官と一緒に手に汗握りながら見ている。主人公が剣を振るうと、画面が光ってすごい迫力だ。

「わあ、かっこいい……!」

「そうだな」

「はい…………え?」

 耳元で聞こえた声に、僕は驚いて横を見ると、ガムラさんの顔がすぐ近くにあって、僕の心臓がどきりと跳ねた。ガムラさんも自分の顔が近いことに気づいたようで、恥ずかしそうにしている。

「すまない。つい夢中になってしまってな」

「いえ……」

 僕の頬には熱が集まり、きっと赤く染まっているだろうと思う。ガムラさんの耳はピクピクと動いている。もしかして照れているのだろうか。それからお互いに無言で、僕は映画を見るのに集中しているように見せかけるのに一生懸命だった。しばらくしてちらりと横を伺うと、こちらを見つめていたガムラさんと目が合ってしまい、ピクリと身体を揺らす。ガムラさんの目には熱が籠っているように見える。

 ガムラさんは、僕が身体を震わせたのを見て、少しずつ顔を近づけてきた。(あれ…? こ、これってキスされる…?)そう思い、僕は顔を背けることもできたのに、ゆっくりと近づいてくるガムラさんの唇を目を閉じて受け止めた。かさついたそれは触れてすぐ離れていった。僕に深い衝動を残して。

「ん……」

 僕は初めてのキスの衝撃から、少し声を漏らしてしまった。顔は真っ赤になっていると思う。だって、誰かとキスをするのは初めてだし、その相手があのガムラさんなのだから。何て言えばいいのか分からずに、ガムラさんを見つめていると、挙動不審な僕を見て、ガムラさんは少しだけ悲しそうな顔をした。心なしか尻尾も萎んでいる。

「どうした……?狼獣人とのキスは気持ち悪かったか?」

「えっ……?ぜ、全然、そんなことはないですっ!」

 予想外のことを言われて、慌てて否定する。ガムラさんの悲しそうな姿は見たくない。その一心で真実を打ち明ける。

「僕、誰かとキスするのは初めてで……」

 僕は必死に伝えると、ガムラさんは訝しげな声を出す。

「初めて?タマルはどうした」

「あっ……! そ、それは、アカツキはキスが嫌いで、あの、その」

 うっかり本当のことを漏らしてしまった僕はしどろもどろになりながら、言い訳を探す。それと同時に、僕はガムラさんを騙すためにこの場にいることを思い出してしまい、胸が痛くなった。ガムラさんはそんな僕を見て、何かを考えている様子をしたのだが、慌てふためく僕がそれに気づくことはなかった。

 急に顔を曇らせた僕を見て、ガムラさんは何を思ったのか、柔らかで、けれどどこか僕を縛り付けるように、僕に問いかける。

「……ヒビキは俺にどういう関係を望んでいるんだ」

「えっ……」

 ガムラさんは真剣な眼差しで僕を見つめる。そういえば僕達の関係は何なのだろう。アカツキはセックスの相手になるように言っていたけれど、こんな素晴らしい人が僕を抱いてくれるとは思えない。

「あの時は混乱していたようだったが、俺はてっきりアカツキが浮気している間の寂しさを紛らわせたいのだと思っていた」

「そ、それは」

 なんて返せばいいのか分からず、僕は言い淀む。焦りで目の奥から涙が出てきてしまう。セックスフレンド、一夜の恋人、身体だけの関係など頭の中でぐるぐると言葉が回る。そんなことをガムラさんとするというありえないことを考えるだけでくらりと眩暈がする。アカツキからも関係性までは指示されていない。

 そうやって焦る僕の口から出てきたのは、紛れもない本心だった。

「その、僕、は、ガムラさんの側に居たいだけです……」

「っ……! この小悪魔め」

 ガムラさんは小さく息を呑み、何かを呟いたが聞こえなかった。ただ、瞳の瞳孔が小さくなり、獲物を見つけた時のような鈍い光を放っている。僕はなぜかぞくりと背筋が粟立つ。

「っ……」

 僕は何か間違えてしまったかと思い、聞き返す。しかし、ガムラさんがふっと息を吐いた途端、その光は霧散してしまった。

「……分かった。浮気相手のくせに聞きすぎたな。次はヒビキの部屋へ行ってもいいか?」

「えっ……あの、はい」

 ガムラさんが浮気相手なんて畏れ多い。彼はただ、縋り付いてきた部下を放っておけないだけということは分かっている。今は何を言っても間違えてしまいそうで、ただ頷くことしかできない。

 僕の返事を聞いて、ガムラさんはほっとしたような表情を見せた後、「またチャットを入れる」と言ってくれた。隣の部屋だと言うのに、僕が部屋に入るのを見届けようと、僕に着いてきて部屋の外まで来てくれた。

「しっかり寝て、身体を休めるように」

 その言葉が上司のようで僕は思わず笑ってしまう。

「ふ、ふふ。はい。ありがとうございました」

 僕が笑う様子を見て、ガムラさんは不思議そうにしていたが、最後は微笑んだ。その笑顔を見て、僕の心臓がどくりと跳ねる。

「こちらこそ」

 ガムラさんは僕が扉を閉める間際に、僕の頬を優しく撫でて、隣の部屋へ戻っていった。別れ際に交わした言葉は短かったけれど、僕の胸には不思議な余韻が残った。

 *

 あの後、僕は風呂に入って、仕事に備えて眠りについた。そして、次の日になり、経理部のフロアに行くとざわざわとしており、何か良からぬ事件が起きてしまったのだと気がついた。

 その事件とは、ウルフワム打倒連合軍のメンバーである青年達が、民間の狼獣人に暴行を加えたというものだった。一人の狼獣人に対し、複数の日本人で殴る蹴るをしたようで、被害者の狼獣人は意識不明の重体で入院したということだ。加害者の青年達は逃亡を続けており、まだ捕まっていない。その事件と同時発生的に似たような事件が全国で十件近く起こり、共同防衛省では狼獣人と日本人との間に緊張感が走っている。この一連の事件は、仲間意識の強い狼獣人にとって許しがたいものであるのは確かだ。現に、共同防衛省の実務部隊は、犯人を探しだそうと連日に渡り警備やパトロールをする計画が立てられた。その指揮をしているガムラさんも忙しいようで、その事件からしばらく経っても隣の部屋の扉が開く音は聞こえなかった。

「お、おい!なんだこれ」

 そんな中、更なる事件が起こった。共同防衛省のデータシステムを攻撃するスパイウイルスが入り込んだのだ。今朝出社して、パソコンの電源をつけたところ、エラーメッセージが表示されていて、すぐさま館内放送でパソコンに触れないようにというアナウンスがあった。国家の機密事項が保存されているデータシステムは最高レベルのセキュリティで守られているため、データを盗まれることはなかったようだが、職員全員のパソコンが使えなくなった。パソコンが使えなくては仕事も進まないため、僕は経理部のフロアで手持ち無沙汰にしていた時、滅多に話したことがない経理部の部長が僕の名前を呼んだ。

「ホンマくん。来てくれ」

「え……は、はい」

 いきなり呼ばれて戸惑いながらも、部長の後をついて行くと、そこは幹部達しか使えない役員会議室だった。

「僕は連れてくるように言われただけだから、ここで待っている。中に入ってくれ」

 部長にそう言われて、目を白黒させながら中に入ると、そこには円卓があり、僕が立つ反対側の席にドルーガ副指揮官が座っている。状況が理解できていない僕に、ドルーガ副指揮官が「座って」と促し、僕は弾かれたように目の前の席に腰掛ける。ドルーガ副指揮官はその様子を見てから、おもむろに口を開いた。

「ヒビキ・ホンマ君、単刀直入に言うけど、君のパソコンからスパイウイルスが拡散されたみたいでね」

「え……?」

 ドルーガ副指揮官から聞かされた言葉が衝撃的で一瞬言葉に詰まってしまった。けれど、僕は思い当たる節もないので、パニックになりながらも否定する。

「ぼ、僕のせいなんですか?でも、僕はそんなこと……」

「落ち着いて。君が犯人だとは言っていないよ。最近、不審なメールは届いていないかな」

「不審なメール、ですか……?」

 不審なメールと言うが、僕は経理部なので、大体のメールの送り主は共同防衛省の内部の人だ。記憶を思い返すが、その中で怪しいものなどなかったと思う。いきなり言われた衝撃で動揺してしまい、微かに言葉尻が震えてしまう。僕は共同防衛省を危険に晒すような重大なミスをしてしまったのかもしれない。そう思うと、自分が重犯罪人のような心地がしてきてしまい、鼓動が早くなり、汗が吹き出てくる。

「特に覚えはないです……すみません」

 本当に思い当たることがないため、何も言えずにいると、ドルーガ副指揮官は僕を見定めるように目を眇める。その様子に不安になり、僕は自分の体を抱きしめる。すると、ドルーガ副指揮官は優しく微笑んだ。

「怖がらないで。念のため確認しているだけだから。無差別で攻撃するスパイウイルスもあるから、たまたま君のパソコンから入り込んだだけの可能性の方が高いよ」

 その時点で、会議室の扉が開いて、ヴィッセル指揮官が焦った様子で入ってきた。

「ヒビキ!」

「ガ、ヴィッセル指揮官!」

 僕は驚いて後ろを振り向くと、ガムラさんは僕を安心させるように背中に手を当ててくれた。そして、ドルーガ副指揮官に向かって激昂する。

「バロン。俺抜きでこの件を進めるなと言っただろう!」

「公私混同しそうな奴は最初から省く。当たり前だろうが」

「何だとっ?!」

「ただ、その子は白だと思うよ。嘘をついていたら、発汗や動悸は抑えられるからね。他の狼獣人よりも優秀な僕の鼻と耳は、その子は嘘をついてないと言ってる」

「……」

 ドルーガ副指揮官の言葉を聞いて、この人の前では嘘すらつけないのかと驚く。一方、ガムラさんはその言葉を聞いて、真剣な眼差しで僕を見る。

「ヒビキ、何かあったら俺を頼れ。これは上司としてでもあるし、一人の男としてもそう思っている」

 ガムラさんは僕をまっすぐ見て、真剣な様子でそう言った。その様子から、ガムラさんは本気で僕を心配してくれていることが分かる。こんな時でも僕を信じてくれることに胸が一杯になる。

「ありがとうございます……」

「あー、いま仕事中なんですけど。こほん。それで、君のパソコンとデータベースのセキュリティを強化することにしたから、その間は代わりのパソコンを使ってね。少し不便かもしれないけれど、経理部の部長にもそのことは伝えておくよ」

「分かりました」

 ドルーガ副指揮官はガムラさんに胡乱げな視線を向けてから、部屋の外にいた部長を呼んで、指示を出した。その後、僕だけ経理部のフロアに戻るように言われて、部屋を出る。しかし、突然自分の身に降りかかった疑惑に動揺を収められず、休憩室で少し気持ちを整理してからに自分のデスクに戻ろうと思い、足を進める。

 休憩室について、長椅子に腰掛けて息を吐くと、緊張感が解けて一気に脱力してしまった。僕のパソコンからウイルスが広がってしまったなんて、許されないことだ。けれど、なぜそうなってしまったのか思い当たることはない。そこまで考え、僕はなぜかふとアカツキからのメールを思い出した。そういえば、アカツキから謎の猫の画像がついたメールが届いたことがあった。僕はアカツキが何か伝えたいのかと思って、その画像をクリックしてしまった。メールと画像自体は普通のものだったけれど、アカツキから送られていたメールを開いて、そこからウイルスが広がったのなら時系列としては辻妻が合う。

(まさか……そんなはずないよね……)

 不安を振り払うために頭を振って立ち上がると、休憩室の扉が開かれた。そこに立っていたのはヴィッセル指揮官だ。彼は心配そうな顔をして、早足でこちらに向かってくる。

「ヒビキ。大丈夫か?」

「ガム、ヴィッセル指揮官……!」

 ヴィッセル指揮官は僕の隣に座って肩を抱き寄せてくれる。突然の出来事に頭がついていかないが、ヴィッセル指揮官の手が優しく背中をさすってくれていることだけは分かる。

「ヴィッセル指揮官……どうしてここに……?」

「先程、辛そうな顔で会議室を出て行ったから、気になってな。……辛いことがあったら、力になると言っただろう」

「……」

「俺はお前の味方だ」

 僕はアカツキの願いを断れずに、ガムラさんを騙しているのに、彼はそんな僕を信頼してくれているという。どうしてこんなにも優しいのだろう。

「ありがとうございます……」

「気にするな」

「あの……ガムラさん。……っ!!」

 その優しさに触れて、僕はアカツキからのメールのことを伝えてしまおうかと思った。その瞬間、頭に鋭い痛みが走り、うずくまる。

「ヒビキっ!大丈夫か」

「……だ、大丈夫です」

「今日は精神的に疲れたんだろう。横になって休んだ方がいい。指揮官室に大きいソファがある。そこで寝て休め」

「い、いえ、大丈夫です。ここで、少し座っていれば」

 頭痛が治まってから立ち上がると、何か言わなければいけないことがあった気がするのに、頭に靄がかかってしまったように思い出せない。ガムラさんは心配そうに僕を見つめている。僕はふらつきながら休憩室のベンチに座り、少し休むことにした。ガムラさんはそんな僕の隣に腰掛け、何も言わずにただ寄り添っていてくれた。僕はヴィッセル指揮官の優しさに甘えて、しばらくそうしていた。

 

 その後、僕を心配するガムラさんと別れて、経理部のフロアに戻った。フロアに入った瞬間、経理部の狼獣人からは冷たい目で見られた。経理部以外の狼獣人からは遠巻きに見られて、ひそひそと話をされている。同僚達の豹変ぶりに、何が起きているのか全く分からない。悪意のこもった視線を浴びながら、僕は自分の席に着いて仕事を始めた。

 それから数日間、居心地の悪い日々が続いた。僕は誰かと話すこともなく、ただ黙々と仕事をしていた。そんなある日、仕事を終えて机の上を整理してから帰ろうとしていると、誰かから呼び止められた。振り返ると、そこには他部署の同僚がいた。確か陸上部にいる優秀な狼獣人で、僕と同じ年に入省した人だ。

「ホンマ」

「え……?は、はい」

 その彼がいきなり話しかけてきたので、驚きつつも返事をすると、彼は僕を睨みつけた。

「お前がウイルスをばら撒いたと聞いた。お前はウルフワム打倒連合軍のスパイなんだろう」

「……っ?!」

 同僚の口から飛び出した言葉に、心臓が止まるかと思った。アカツキのことを隠していることが裏切り行為と言えるなら、僕はまさしくスパイと言うことになる。咄嗟に否定するが、そんな不安から言葉尻が震えてしまう。

「ち、違う……」

 そんな僕の様子を見て、その同僚はますます憤ったように声を荒げる。

「違わないだろ?そんな見た目をしてるのも、全て演技なんだろうが」

「見た目?そんな……」

 彼の責めるような言いぶりに、訳が分からず、僕の目にはじわりと涙が浮かんできてしまう。経理部の部員達も僕達の様子を、固唾を飲みながら見守っている。そうしているうちに、その同僚は僕の近くまでやってきたと思ったら、ヒクヒクと鼻を動かして、不思議そうに言った。

「お前、匂いがない……?」

 同僚は僕の様子を見て、ごくりと喉を鳴らし、目の色を変えて、僕の手を掴んできた。

「……許して欲しいなら、何をすればいいのか分かるだろ?」

「……え?な、なにって……?」

「決まってるだろ」

「ひっ」

 彼が僕の手を引いて迫ってきたその時、後ろから伸びてきた大きな手が僕と彼を引き剥がした。咄嗟に後ろを見ると。僕を庇うようにして立ちながら同僚の手を阻んでくれたのはガムラさんだった。号令のような声を張り上げて咆哮しながら、叱責する。

「お前等っ!!!」

 その嵐のような声に、その場にいる者は直立不動になり、ガムラさんの方を見ている。

「ヒビキは既に事情聴取を受けて、処罰理由なしと判断された!この件でヒビキを責めるのは、省の風紀違反だ!この場にいる者は全員始末書を書いて提出しろ!」

 ガムラさんの凛とした声で命じられると、僕をスパイだと言った同僚は、群れのリーダーに従う狼のように引いた。僕は大きな背中に隠れて、ガムラさんが守ってくれるのを眺める。ガムラさんは毅然とした態度を崩さずに、口を開く。

「ヒビキはスパイではない。もしそう思う者がいるのならば、この場で直接私に言ってくれ」

 ガムラさんの言葉を聞いて、先程まで僕に詰め寄っていた同僚は、ぐっと言葉を詰まらせる。そして、周りの者達も何か言いたげな瞳をしていたが、結局何も言わなかった。それを見て、ガムラさんは僕を経理部のフロアから連れ出して、休憩室までやって来た。

「大丈夫か?」

「はい……ありがとうございました」

「……最近、ウルフワム打倒連合軍の動きが活発でな。共同防衛省は日本人と狼獣人が働いているから、どうしても疑心暗鬼になりやすい。俺の監督が行き届いていないせいで、怖い思いをさせてしまってすまない」

「そんな……ガムラさんは何も悪くありません。僕こそ迷惑をかけてしまって……」

「迷惑だと思ったことはない。それより、本当に大丈夫か。体調が悪いように見える」

 ガムラさんに指摘されて、ギクリとする。このところ、周りからの目線が気になり、あまり眠れていなかった。そのせいか、軽い頭痛が続いているのは確かだった。

「あ……実はここ数日、頭が痛くて」

「……そうか」

 そこまで聞いて、ガムラさんは少し考え込むような様子を見せたが、すぐに顔を上げた。そして、僕の背に手を当てて、心配そうな様子で話しかけてくれる。

「今日はもう帰った方がいいだろう。送っていこう」

「え?いや、でも、まだ業務時間中で……」

「無理をする必要はない。今日はどうせ、ヒビキ以外の職員は始末書の作成で手一杯だ」

 そう言われ、半ば無理やりにガムラさんに社宅まで送ってもらい、早退することにした。そして、驚いたことに、ガムラさんも僕の部屋にやって来た。

 そういえば、次は僕の部屋で会うことになっていた。僕の部屋はガムラさんと左右対称の間取りで、家具は量販店で揃えた至って普通の一人暮らしの部屋だ。部屋の奥には量販店で買った水色のカバーに包まれたベッドがあり、その手前に少し大きめの黒いローテーブルがある。下に引いてあるグレーの丸いラグは適当に買ったものだ。

「ここがヒビキの部屋か」

「誰も呼んだことがなくて、散らかっていてすみません」

「誰も……? 」

 そういえば、アカツキと仮とは言え恋人同士であるのに、部屋に来たことがないなんて変だ。この前も同じ失態をしてしまったのに、なんて馬鹿なんだ。そう気がついて焦って訂正する。

「え、と、アカツキとは彼の部屋で会うことになっていたので」

「……そうか」

 そう言うとガムラさんは何か考えているようだった。疑問に思っているうちに、頭痛は大分良くなっていた。ガムラさんの近くにいると、頭痛が和らいでいく。

 ただ動こうとすると、ガムラさんが心配そうにするので、ベッドに入ることにした。パジャマに着替えて、ベッドに座っていると、ガムラさんがベッドの縁に腰掛けた。

「ガムラさん、送っていただいて、ありがとうございました。もう寝るだけなので」

 僕は御礼を言って、仕事に戻ってもらおうとした。その時、ガムラさんが話し出した。

「……この前、ヒビキは私の側にいたいと言ったな」

「……はい」

 この前、口から出てきた言葉を確かめられる。ガムラさんは少しだけ言い淀み、口を開いた。

「俺は」

「……?」

「ヒビキを傷つける全てから、守りたい。それがヒビキから何かを奪うことになっても」

「え……」

 僕はガムラさんが言っていることを上手く飲み込めないまま、彼を見つめていた。そんな僕を見て、ガムラさんは顔を近づけてきた。僕はその様子を見ながら、彼の顔が僕に覆い被さるのを見ていた。

 かさついた唇が重なって、僕がぴくりと跳ねると、唇は直ぐに離れる。離れたと思ったら、名残惜しいかのようにまた合わせられる。二回目なのに、心臓がドキドキと音を立てて鳴る。僕は思わず目を瞑る。

 優しく、壊れやすいものに触れるかのような繊細な触れ合いが続き、僕のお腹の下の方にチリチリとした熱を生み出す。

「ん……」

 ガムラさんは掛け布団の上にある僕の手を握り、キスをする。あたたかく慰めるように繰り返されるキスは、僕の頭痛を少しずつ取り除いていく。僕はキスに夢中で、彼の手を握り返す。そしてどれほどの時間が経ったのか分からないが、ガムラさんの顔が離れていった。

 僕は束の間の触れ合いに恍惚としてしまう。そして、ガムラさんはそんな僕を熱っぽい視線で見つめ、僕に囁く。

「俺が必ず犯人を見つける。ヒビキは何も心配しなくていい」

 頭痛がなくなり、知らずに疲れが溜まっていたようで、急に眠気が襲ってくる。ガムラさんは僕にゆっくり休むようにと言い、部屋を去ってしまった。僕はしばらく呆然として、スイッチが切れたように眠ってしまった。朝起きると、アカツキがくれた銀色の指輪は薬指から消え去って、どこかへいってしまった。

 *

 

 あれから、ガムラさんの一喝が聞いたのか、職場ではあからさまな嫌がらせはなくなったが、遠巻きに見られていることは変わらなかった。そんな中、ガムラさんは僕を励ますように時間を作ってくれた。あの日のキスのことは何も触れられなかった。きっと僕が惨めで見ていられずに慰めたかったのだろう。

 二人でいるときは、家で料理を作ったり、一緒に本を読んだりしている。穏やかな時間が流れるが、ガムラさんは仕事が忙しそうで、そんなふうに過ごせるのは一週間に一日あればいい方だ。ガムラさんは、最近は滅多に共同防衛省にいないと聞いた。どこかで極秘任務をしているのかもしれない。僕に聞く権利はないけれど。

 二人でいる時、ガムラさんは僕の頭を撫でたり、軽く触れてくる。僕はガムラさんに触れられると、心が湧き立つようになっていた。そして不思議なことに。その一瞬だけ、頭痛が無くなるのだった。

「今度、外に出かけるか」

「え……?」

 二人で本を読んでいた時に、ガムラさんが僕に声をかけてきた。思いがけない誘いに戸惑っていると、ガムラさんは少しだけ耳を下げてしまう。

「嫌か?」

「いえ!行きたいです」

 そのことに気づいて不安にさせてしまったことが申し訳なく、行きたいと返事をすると、ふわりと尻尾が揺れたような気がした。なんだか、ガムラさんが可愛く見えて仕方がない。

「じゃあ、決まりだな。待ち合わせ場所は後で送る」

「楽しみにしてますね」

「ああ。俺もだ」

 憧れの人が近くにいてくれて、僕を思いやってくれている。そのことが僕には有難いことに思えて、胸が一杯になる。

「……あの」

「どうした」

「……なんでもないです」

「なんだそれは」

 僕はガムラさんに抱きつきたくなって腕を伸ばしかけるが、途中で思い留まる。よく分からない僕の問答にガムラさんは少しだけ笑う。そんなことをしたらきっと、ガムラさんを困らせてしまう。それに、これはきっと僕の我欲を満たすだけの行動だ。誤魔化すように笑うと、ガムラさんが頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、僕はつい甘えるようにすり寄ってしまう。

「甘えたがりだな」

「……」

 その暖かな声は僕の全てを受容してくれているようで、僕の心はガムラさんへの思いで溢れている。

「今日はもう帰るか」

「はい……」

 もう離れなければならないことに寂しく思っていると、ガムラさんは苦笑して僕の頭を撫でる。

「送っていく。今週は外部での仕事があるから共同防衛省に行くことはない。もし前のようなことがあれば、すぐに連絡をくれ」

「分かりました……」

 僕を案じている声に胸が締め付けられる。ガムラさんに見送られながら、玄関を出ると、夏の夜風が頬を掠める。その風は僕の体温を超えるように暑く、僕の中に渦巻いている熱を冷ましてはくれなかった。