狼獣人の優しい溺愛 攻視点
「ガムラ、お前の嫁だ」
白銀の毛並みを持つ祖父は、すっかり気に入った日本のキモノを来て、タタミを敷いた客間で、ザブトンの上に座り胡座をかいている。俺が今いる古い日本家屋は、日本での祖父の自宅として、都内の一等地に建てられたものだ。窓から見える色鮮やかな紅葉と広い日本庭園は、ここが都心だと言うことを忘れさせる。久しぶりに会った祖父は眼光が鋭い。ウルフワムの首領の座は数年前に降りたものの、その威圧感は健在であるようだ。
祖父の横に座り、"嫁"と紹介されたのは、今では珍しい狼獣人の雌だった。淡い薄水色のワンピースに身を包み、少し怯えたように目を伏せている。身体の大きさを見て、まだ成人したばかりなのだと思う。黒々とした毛並みを持っているため、北の方の一族かもしれないと思う。北の方ではまだ雌も産まれると聞いている。
俺は心の中で溜め息を吐き、この場から早く立ち去れるように言い訳を探し始める。実は、こうやって呼び出されて、番候補を紹介されるのは今日が初めてではない。
祖父は、数年前に表舞台の役職や官職を全て降り、この屋敷で隠居を始めた。しばらくは大人しくしていたようだが、隠居してしばらく経った後、熱を上げ始めたのが、孫である俺の嫁探しだった。ウルフワムは家族を大事にするため、孫の幸せを願っているがゆえの行動であることは間違いないだろうが、本音は暇で暇でしょうがないから、早く曾孫の面倒を見たいというものだろう。自分の欲望を是が非でも叶えようとするところは、歳をとっても治らないようだ。
しかし、祖父には悪いが、俺はまだ誰かを番にする気はない。全てを独占したいほどの強い感情を、誰かに抱くということが想像できないからだ。
狼獣人は、一対の番関係を大切にする。そのため、番の匂いを纏わり付かせている個体は、その個体の番以外から恋愛感情を抱かれることはない。狼獣人は、他の番の匂いを纏っている個体に対して、番対象ではないと本能的に脳が判断してしまうのだ。その本能は、狼の"番を大切にし、独占を欲する本能"に由来する。
狼獣人は、番が心穏やかで過ごせるよう、悲しまないよう、慈しみ、尽くす。その見返りとして、番の心が誰かに向くことは許せない。そんな業の深い愛着関係を作る。
俺は、今までの経験から、そんな強い衝動を誰かに対して持てるとは思えない。それに、誰かを番にするというのはとても責任がかかることで、今の俺にとっては負担に思える。この前、共同防衛省の指揮官に任命され、その仕事だけでも山ほどあるのに、番をケアする手間はとてもじゃないが作れない。俺は、番に関することを"手間"だと思ってしまうくらい、まだまだ未熟なのだ。だから、まだ番を探す気にはなれなかった。
「……私には勿体無い方です」
「お前はそう言って、またはぐらかすつもりだろう」
今日も誤魔化してしまおうと思ったのだが、祖父にはバレているようだ。はあと小さく溜息を吐かれてしまった。
「遊ぶのはお前の自由だ。けれど、家族を持つということも、幸せの一つであることは忘れないでくれ」
チクリと釘を刺されてしまい、心の中で舌を出す。俺は今は番を作る予定はないが、狼獣人は総じて性欲が強い。だから、番が見つかるまでは匂いをつけないようにコンドームを用いて情交する。番の匂いは身体の奥に放つ精液によって染み込むからだ。なので、もっぱら匂いを放つのは雌の狼獣人、受け入れる側だけだ。ただ、狼獣人が性に奔放なのは、番が見つかるまでの話で、番が見つかれば誰に言われることなく、番にしか目が向かなくなるという。
俺も誘われればベッドを共にするし、これまで何度か誘いを受けてきた。祖父はそのことを言っているのだろう。しかし、狼獣人や人間に誘われても、匂いをつけたくなるような、心を縛りつけたくなるような相手には会ったことがない。
祖父は俺の心の内を読んだかのように、この話は終わりだとでもいうように、顔の横で小さく手を振り払う仕草をした。
「……まあ、いい。お前が番に巡り合って、メロメロになった時には、思う存分、笑ってやるわ」
「そんなことが起こるといいのですが」
俺は祖父の言葉に苦笑しながら、日本家屋を立ち去った。本当にそんなことが起こるとは思えなかったが。
※
祖父との会合から約一年後、俺は番の"つ"の字も出ないほど、多忙な生活を送っていた。祖父は、俺の忙しさを察したのか諦めたのか、嫁探しと言って赤坂の自宅に呼び出されることはなくなった。
俺は、目の前に積まれた書類を片付けるため、共同防衛省の執務室で仕事をしていた。執務室は個室で夜10時を過ぎて、そろそろ帰らなければと思うが、先ほどバロンから渡された資料を見て、思わず眉を顰めてしまう。
その資料の真ん中には大きな赤字で極秘と書かれている。表紙を捲ると、共同防衛省内にウルフワム打倒連合軍からのスパイが紛れているかもしれないということが事細かに書かれている。
簡単に言えば、受信先のメールアドレスは分からないが、ウルフワム打倒連合軍から海外のサーバー経由で共同防衛省内部にいる職員と連絡をとっている痕跡が見つかったようだ。
この資料が正しいとすると、職員達の間で不信感が生まれるし、各職員が閲覧できるデータをかなり制限しなければならないことになるだろう。いきなり見つかった大型爆弾のような問題に思わず唸ってしまう。
資料を最後まで読んだが、スパイが誰であるか分からない以上、良い対処案は見つからない。休憩室で頭を切り替えて、それでも思いつかないなら、今日は帰ってしまおうと思い、席を立つ。そして、自動販売機と古びた長椅子のある休憩室に行くと、そこには小柄な日本人の職員がいた。
「えっと……、お疲れ様です」
そう声をかけてきたのは、小柄で華奢な日本人だった。スーツを着ているということは、内勤の職員なのだろうか。さらさらの黒髪と大きな目が彼を幼く見せているが、少しだけ垂れ目なところが色気を感じさせる。小ぶりな唇は吸いつきたくなるほど可愛らしい桜色をしている。狼獣人と比べると身長は小さく、ワイシャツの下の身体を抱きしめる時は壊さないように気をつけなければいけない。
彼を見た瞬間、抱えていた難題が吹き飛び、鼓動が大きく鳴り出した。彼と一つになって、埋め尽くしたいという欲望に駆られる。彼の瞳に俺が映っていたら安心するし、俺以外が映っていたらそいつを噛み殺してしまうかもしれない。そんな強い衝動と共に俺の胸に湧いたのは、歓喜だった。番を持つ狼獣人が幸せそうな理由がこの時初めて分かった。相手がいるだけで、心が喜ぶのだ。
彼の名前はヒビキというそうだ。経理部の職員だと言っていた。彼は俺を見てすぐ休憩室から出て行こうとしてしまう。その様子を見て、少し寂しく思いながら、慌てて呼び止める。
「私は総括指揮官のガムラ・ヴィッセルだ。少し話しをしていかないか。入ったばかりの子がこの時間まで残業している理由も気になるから」
そうして、ヒビキは俺の隣に腰掛けて、私の問いかけに答える形で、ぽつりぽつりと話し始めた。ヒビキは自分から積極的に話す方ではないが、俺が聞くと少し微笑みながら答えてくれる。ヒビキが微笑むだけで、心の奥が温かくなる。少し考えながら話す様子も可愛らしい。部下には簡潔になるべく短く報告するように指示しているが、ヒビキには少しでも長く話していてほしい。彼の甘く高めな声は耳に馴染むし、彼の考えていることは一つ残らず知りたいと思う。
ヒビキは共同防衛省に入って間もないらしく、業務に慣れていないため、最近残業が続いていると言う。だとすると、夜遅い時間に、共同防衛省から社宅までの暗い道のりを一人で歩いていることになる。危ないことこの上ない。
課長が指導係ということも気にかかる。ヒビキと課長では経験の量が違いすぎて、指示の内容も上手く伝わっていない可能性がある。
ヒビキの趣味や休日の過ごし方を聞いていたら、あっという間に時間が経ってしまった。もっと話したい気持ちはあるが、これ以上引き留めてはヒビキの負担になるだろう。そう思い、ヒビキには「遅いから、もう帰った方がいい」と伝えたが、「まだ終わっていない仕事があるので、もう少しだけ残ります」と言われてしまった。
その言葉から真面目な性格なのだと伝わってきた。だから、くれぐれも無理はして欲しくないと思い、思わず口から言葉が出てくる。
「ヒビキ、私にできることがあれば、いつでも連絡をくれ。君の力になりたいんだ」
ヒビキは俺の言葉を聞いて、少しだけ俯いて、嬉しさを噛み締めるような顔をした。その顔が可愛くて、俺の胸はまた大きく高鳴る。
俺はヒビキを経理部まで送り届けてから、自分の執務室に戻ってきた。けれど、先ほどの衝撃の余韻が尾を引いている。愛しくて可愛い俺の番。ヒビキの表情を曇らせるものは、全て取り除いてやりたい。そう思い、経理部の部長にメールを送ることにする。メールには、新人の指導係は年次の近い職員にするように、また若い職員に残業はさせないようにということを書いた。
そういえば、ヒビキの連絡先を聞くのを忘れてしまった。けれど、共同防衛省は俺のテリトリーだ。次に会えた時に聞けばいい。
この時はまだ、俺は番を知った喜びに酔うばかりだった。けれど、俺はヒビキがテリトリー内にいることで、油断していたのだ。後日、初めて感じる深い喜びは、彼が俺のものになるという思い違いから生まれていたと知ることになる。
※
俺は、いつもの業務に加えて、ウルフワム打倒連合軍のスパイを見つけるための方策を考えるという追加の業務により、多忙を極めていた。執務室の机の上には書類の山が出来ており、どれだけ処理をしても、新しい山が出来てしまう。落ち着いたら、ヒビキをランチにでも誘ってみようと思っていたのに、なかなか連絡を取れないままだった。彼の顔を見れたなら、疲れなど吹き飛ぶだろうに。
「陸上第三小隊は、大きく迂回して、敵陣を遊撃しろ!」
今は、共同防衛省の陸海空部隊で行う野外訓練の最中だ。野外訓練は、共同防衛省が開発し設置した東京湾の埋立地にあるジオラマフィールドで行われる。ジオラマフィールドは一種の仮想空間で、様々な環境をリアルな質感で再現できるというものだ。今回は、砂漠地帯での戦闘を模しており、一つの部隊を敵役にして、その敵役が逃亡するところを、残りの部隊で撃退するという流れで進めることになっている。
俺は、バロンと共に指揮官用の帆幕の中で、フィールド上空に飛ばしているドローンからの映像を見て、指示を出す。
俺の指示で、陸上部隊が動いていく。俺は、指示を聞いた各小隊の隊長が、隊員達に発する号令を聞くため、無線を調節する。俺の無線機は、全ての隊員の無線に繋がるようになっているため、調整が難しい。隊長達の無線番号を探すために、調節していると、どこかの隊員が無線を切り忘れたのか、雑談のような会話が聞こえてくる。
「なあ、聞いた」
「何が」
声だけではどの隊員かは分からないが、訓練中に雑談は慎めと注意しようと思い、口を開く。
「経理部のお姫に番が出来たんだとさ」
「えっ!まじかよ」
しかし、隊員達の会話の内容が耳に入り、注意しようと思った口が瞬時に閉じる。会話の内容に集中するため、俺の耳がぴんと立ったことが分かる。
名も知れぬ隊員の言葉から、ある経理部の職員に番ができたのだと知る。そのことを理解できた瞬間、心臓が嫌な音を立てて鳴り始める。まさか、そんな訳がない。経理部の職員は、20名ほどいたはずだ。番が出来たという職員がヒビキだと決まったわけではない。それなのに、なぜか勝手に毛が逆立ち、身体が臨戦態勢に入ったことが分かる。
「な。ショックだろ。相手は、同じ経理部の日本人だってよ。ヒビキくんは、狼獣人が話しかけるとビビっちまうから、みんな様子見してたのにな。可愛い子はすぐに掻っ攫われちまう」
「そんな……。俺の癒し、ヒビキちゃん……」
その言葉を聞いた時、思考が停止した。無線の先にいる隊員達の言葉を、心が拒否をする。俺は、あまりの衝撃に固まってしまい、それを不審に思ったバロンが横から話しかけてくる。バロンは別の無線に繋いでいたようで、先ほどの隊員の声を聞いてはいない。
「ガムラ。隊長達が次の指示を待ってる」
「……」
動かない俺を見て、バロンが訝しむ。
「おい、ガムラ」
俺は、頭が真っ白になり、出すはずだった指示の内容がが頭の中からどこかへ飛んでいってしまった。心が赤信号を出していることが分かり、バロンにSOSを出す。
「……指揮を代わってくれ」
「……分かった。体調が悪いなら、早めに言えよ」
バロンは、様子のおかしい俺を見て、体調不良だと思ったようだ。すんなりと指揮を代わってくれ、隊長達に指示を出す。野外訓練は、バロンの指示により滞りなく進んでいったが、俺は椅子に座り、呆然とするばかりだった。
「腹でも痛かったのか」
野外訓練はいつの間にか終わったようで、バロンが無線を外しながら、話しかけてきた。
「……」
俺は何を言えばいいのか分からず、黙っていた。バロンは、いよいよ俺に何かあったと思ったのか、隣の椅子に座り、俺を心配そうに見やる。
「本当に何があったんだ」
幼い頃からウルフワムの野原を一緒にかけていた友人が不安げに聞いてくる様子を見て、俺は思わず本音を溢してしまった。
「……番がいる人間を、奪い取るにはどうすればいい」
「は?」
バロンは呆気に取られたように聞き返してくる。俺は、ヒビキに会ったこと、そして一目見て番にしたいと思ったこと、そのヒビキが他の番を作ってしまったかもしれないことをバロンに打ち明けた。
「あー……」
バロンは俺の話を聞いて、少しだけ考え込み、気まずそうに話し出す。
「そりゃ、今はショックだよな。だけど、俺ら狼獣人は、番のいる個体は本能的に好きにならない。番のいる個体を取り合うことは、争いの種になるからだ。だから、そのヒビキから他のやつの匂いがしてたら、ガムラの熱も冷めるんじゃないか、って俺を威嚇するなよ」
バロンの話を聞いて、思わず、俺以外の匂いを纏っているヒビキを想像してしまい、その不快感に牙を出し、喉が震える。
確かに、理性的に考えるならば、バロンの言う通りだ。しかし、ヒビキから俺以外の奴の匂いがしていたらと考えるだけで、そいつの喉元を掻っ切って、ヒビキを攫っていくという想像が容易に出来る。そして、俺の匂いがつくまでヒビキを抱くだろう。
狼獣人は、番のいる個体を好きにならない。けれど、俺以外の奴の匂いを纏っているヒビキに会ったら、俺は彼への思いを消すどころか、ヒビキの意思を聞かずに暴走してしまいそうだ。
「お前が気にしているのが誰は知らないが、他の誰かと番になったなら、お前の熱はいつか冷めるさ。お前は想われる方に慣れすぎだ。想う方の気持ちが分かるいい機会じゃないか」
バロンはそう言って、ジオラマフィールドの帆幕から出ていった。他人事だと思って、気楽に言ってくれる。俺は小さく息を吐き、椅子にもたれた。
確かに、先ほどの隊員は"ヒビキ"に番が出来たと言っていただけで、経理部の"ヒビキ"は他にもいるかもしれない。その真偽を確かめるには、ヒビキに会って匂いを嗅ぐしかない。
それは分かっているが、ヒビキが他の奴の匂いをさせていたら、何をするか分からない。バロンの言うとおり、この気持ちが無くなるだけかもしれないが、最悪の場合、ヒビキを害してしまうだろう。
誰よりも大切にしたいと思ったはずなのに、俺のものにならないのなら、傷つけてでも縛りたいと思う。
初めて抱いた身勝手な思考に驚く。俺は、狼獣人の中でも強い。強くあるよう育てられてきたからだ。だから、自分の力を振りかざし、理由なく誰かを傷つけることは悪だと教わってきた。そして、それは自分への戒めともなった。
しかし、ヒビキに関することだけは、今までの自分が覆される。あの休憩室のひと時を過ごしただけなのに、俺の心は根こそぎ奪われてしまったようだ。見た目や性格に惹かれたのもあるが、俺が声をかけた時に見せた寂しさを隠すような微笑みを見て、どうしても自分の手で幸せにしたいと感じたのだ。
狼獣人は、番を求める生き物だ。番という守るべき存在が出来て初めて、欠けていた部分が埋まり、完全体になると言ってもいいかもしれない。ヒビキに会ったことで、俺は自分が欠けていたことを自覚した。その上で、俺の本能は、ヒビキを番だと認めてしまった。そんな唯一無二の存在が手に入らないなら、奪ってしまえと心が囁く。
これまでは知らなかった暴虐的な自分の一面に嫌気がさし、俺は帆幕の中で苦々しい気持ちを噛み潰していた。
そして、ヒビキに会う決心がつかないまま、時間だけが過ぎていった。会うことが出来ない代わりに、情報を集めた。ヒビキに番が出来たということは、省内で話題になっており、情報を集めるのに苦労はなかった。そうして、やはり番が出来た経理部のヒビキは、俺が休憩室で会ったあのヒビキだと分かった。
番の名前は、アカツキ・タマルと言うそうだ。経理の資格を有しており、これまでの人事評価では実務能力は飛び抜けて高いとされている。職員ファイルに載っている写真を見ると、フレームの太い眼鏡と重たい前髪が印象的で、顔全体の雰囲気が掴みづらい。すれ違っても覚えづらい顔とでも言うのだろうか。ヒビキの番だから、俺の偏見があることを踏まえても、いけすかない男だと思った。この男がヒビキを好きにできるのだと思うと、噛み殺したくなる。
タマルは、ヒビキの教育係を務めており、そのことがきっかけで二人は結びついたのだそうだ。おそらく、タマルが教育係になったのは、俺が経理部長に送ったメールがきっかけだろう。ということは、俺が二人を結びつけてしまったことになる。嘆いてもどうしようも無いが、この時ばかりは絶望で気が遠くなった。
そうして、番が出来た"ヒビキ"が、あのヒビキだと結論づけてから、俺は気持ちのやり場を見つけられないままだった。
どうしようもない悲しみを抱えながら、ようやく一週間の仕事が片付いた金曜日の夜に、バロンを呼び出して、共同防衛省近くの居酒屋へ向かった。酒で誤魔化せるとは思えないが、一人でいるとヒビキの元へ向かってしまうかもしれない。
赤提灯を吊るした和風の居酒屋に二人で入り、暗い気持ちで、焼酎のストレートを飲み干すと、バロンが呆れたように呟く。
「俺の歓迎会でもしてくれるのかと思えば、傷心のお前を慰める会かよ……」
バロンは、俺とヒビキが出会う少し前、共同防衛省に異動してきた。役職は指揮官補佐で、俺の執務室の横に部屋がある。
それまでは、持ち前のハッキング技術を活かして、情報セキュリティ庁の高官をしていた。本人も情報セキュリティ庁の仕事を楽しんでいるようだったので、最初は意外な人事だと思った。しかし、異動してきてすぐ、ウルフワム打倒連合軍のスパイ疑惑をあぶり出したことから、このために異動して来たのかと納得した。内閣かどこかの狼獣人が勘づいたのだろう。もしかしたら、前首相である祖父もどこかで絡んでいるのかもしれない。俺のテリトリー内で起こっていることを把握しきれておらず、そのことも不甲斐なく感じる。俺は、若くして共同防衛省の指揮官に着任したことにかまけて、自分の能力を過信しすぎていたのだろう。不甲斐ないことばかりだ。そのこともあいまって、俺の心にわだかまるもやもやをバロンに打ち明ける。
「俺の想い人、ヒビキには番がいる。……アカツキ・タマルと言うそうだ」
「アカツキ・タマルだと?」
バロンは、なぜかタマルの名前に反応している。俺は焼酎の飲み干して、話し続ける。
「ヒビキにタマルの匂いがついていたら、俺はヒビキの意思に関係なく、抱き潰してしまうかもしれない」
「ガムラ。アカツキ・タマルは、例の件で一番疑惑が濃厚だ」
バロンが何か言っているが、俺は自分のことで手一杯だった。
「日本人は貞節を重んじるというし、まだ匂いがついていない可能性もある。そうだとしたら尚更、ヒビキを襲ってしまいそうだ。俺はどうすればいい」
度数の高い焼酎が喉を通り、胃に入っていく。酔って全てを忘れてたいと思う。自分がこんなに情けない狼だったとは初めて知った。
「おい、聞けよ。仕事の話だ」
そんな俺を見て、バロンが冷静な様子で話し出す。俺はようやくバロンの話が耳に入ってきた。
「……何がだ?」
「アカツキ・タマルは、ウルフワム打倒連合軍からスパイである可能性が高い」
衝撃の事実が耳に入り、思わず声を潜めて、続きを促す。
「……本当なのか。ソースは」
「まず、アカツキ・タマルは経歴が怪しい。部下に、直近五年未満の新入職員の経歴を調べさせたところ、正規の採用ルートで入ってないのはタマルだけだった」
「なんだと。うちに入るには、基本的に人事による面接が必要だ。だったら、どうやって入省した」
「タマルが共同防衛省に就職したきっかけは、当時の総務大臣のコネらしい。総務大臣の名前が入った紹介状みたいなものを人事に見せて、そのまま入省が決まった。だが、裏どりしたところ、大臣はそんな紙は書いていないと言っている。まぁ、政治家なんて、親戚の親戚みたいな関係の奴に安請け合いして、忘れているだけの可能性もあるけどな」
「……」
俺は顎に手を当てて考える。タマルが入省したのは、俺が着任する少し前だ。俺が指揮官であれば、そんな怪しい奴は自分で面接しただろう。
「それに、今日やっと分かったんだが、タマルが使っているパソコンから、珍しい型のウイルスが発見された。そのウイルスは、日本にまだ上陸していないやつで、よほどのマニアじゃないとウイルスがどうかも分からないものだ。そのウイルスは、ハッキングの痕跡を消す特徴を持っている。タマルが共同防衛省のデータにアクセスし、その痕跡を消すために使った可能性が高い。その二つの事情だけでも、アカツキ・タマルは黒に近いグレーだと言える」
「……より確実な証拠はあるのか。紹介元の総務大臣は、総選挙の時には票欲しさに悪どいこともやっていたという噂がある。タマルの紹介状にやましいことがあるなら口を割ることはないだろう。それに、ウイルスは、タマルのパソコンが他の人間に使われていた可能性もある」
「確かに、現時点では、タマルを黒だとは言い切れない。だから、この件は慎重に進めていく必要がある。タマルをはっていれば、ウルフワム打倒連合軍の本拠地を叩くことも可能かもしれない」
「……ああ」
「だからこそ、そのヒビキくんのことも警戒した方がいい」
「なんだと。ヒビキがウルフワム打倒連合軍のメンバーだとでもいうのか」
タマルがグレーだということは分かったので、もう少し調べてみることには賛成だ。そう思っていたら、ヒビキの名前が出たので思わず聞き返す。
「違う。馬鹿、唸るなよ。お前も知っていると思うが、ウルフワム打倒連合軍は、洗脳術を使う。やり方はよく分かっていないが、洗脳された人間は自分が洗脳されたということに気づかないまま、ウルフワム打倒連合軍の指示通りに動く。こちらからしたら、人の形をした爆弾みたいなものだ。それに、お前はヒビキくんに惚れてるだろう。それを利用される可能性もある。とりあえず、今はヒビキくんには会うな。」
そこまで聞いて、タマルのそばにいるということは、ヒビキにも危険が及ぶかもしれないということに気づく。ヒビキの身の安全が一番大事だ。俺が見守れることが一番良いが、今の俺ではヒビキに会い、平常心を保てる自信はなく、祖父のSPを一人貸してもらおうと決めた。
※
バロンと居酒屋で飲んだ次の日、俺は、机に積まれたファイルの中から一枚の紙が出ているのに気がついた。その紙を手に取って見てみると、昨年度の領収書であることに気がつく。そういえば、今日は昨年度の経費精算の締め日だったはずだ。今朝、経理部の部長から全職員宛に、昨年度の領収書があれば、今日中に経理部に持ってきて欲しいとメールが届いていた。
タイミングが良いのか悪いのか分からず、その領収書を手に取り、悩む。経理部に行けば、ヒビキの顔を見ることになる。俺はまだヒビキに会って良いのか悩んでいるし、バロンから会うなと言われている。
けれど、昨日の夜、タマルがウルフワム打倒連合軍のスパイである可能性があると聞いて、ヒビキは洗脳されてタマルと交際するふりをしているのではないかという、意地の悪い思考が頭から離れない。
そんな弱々しい一縷の望みが出てきてしまったために、俺は偶然見つけた領収書を言い訳にして、経理部へ足を運んでいた。ヒビキに会いたいのか、それとも会いたくないのか。自分の思考なのに、はっきりと分からないまま、経理部のフロアに着いた。
中途半端な気持ちは、彼の後ろ姿を見た瞬間、姿を見れた喜びで胸がいっぱいになった。久しぶりに会えて心が喜ぶ。
フロアの入り口に佇み、ヒビキの後ろ姿を見ていると、彼が横に置いてある資料を見出したので、横顔が見えた。
久しぶりに見たヒビキは、窶れてしまったように見える。横顔のため片目しか見えないが、目の下に隠しきれないクマが出来ているし、少しだけ痩せたようにも見える。経理部は、前より残業は減ったと聞いているから、仕事で窶れた可能性は低い。
タマルは、そんなヒビキを見ても何も思わないのか、ヒビキの隣りの席で普通に仕事を続けている。番すら大切に出来ない男なのに、ヒビキの隣りにいて良いと思っているのか。嫉妬と怒りで手元の領収書を握りしめる。
そうして。ヒビキを見ていたが、あるものを見た時に、自分の視力が2.5あることを後悔した。ヒビキの左手に、きらりと光るものが付いているのが見えたからだ。ヒビキの左手の薬指には、銀色のシンプルな指輪がはまっていた。同じものが、タマルの左手にも付いているのも見えた。お揃いの銀の指輪は、日本人の番同士が身につけるものだと知っている。つまり。彼がタマルの番であることを示すものだ。それを見た瞬間、心から血が噴き出したように痛んだ。
思わず眉間に皺が寄り、喉が低く鳴る。このままだと、まずい。そう思った瞬間、何かを感じ取ったのか、ヒビキがこちらを振り向き、用事を尋ねにやって来る。
「ヴィ、ヴィッセル指揮官。何か御用でしょうか?」
「今日が経費の締め日だと聞いて、慌てて持ってきた。まだ間に合うか」
俺はヒビキに襲いかかりたくなるのを必死に堪えて、物分かりの良い上司のふりをする。
そんな指輪、外してしまえ。俺がヒビキだけの首輪を用意してやる。そんな凶暴な俺が顔を出しそうになる。
領収書を渡す時にも、銀色の指輪が目に入り、頭に血が上る。危険を感じた俺は、ヒビキに領収書を手渡して、すぐに踵を返す。そうでなければ、ヒビキを襲ってしまうだろう。
足早に執務室に戻り、扉に鍵を閉め、掌で目元を覆い、深く息を吐く。やはりまだ会うべきではなかったのかもしれない。彼の指に番の証があるだけで、こんなにも凶悪な気持ちになってしまうのだから。
気持ちを沈めるために深呼吸を繰り返す。そうしていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。少し落ち着いた頭で、先ほど見たヒビキの顔を思い返す。ヒビキの顔を思い出した瞬間、彼の匂いも想起される。その時ふと、ヒビキの匂いに他の匂いが混ざっていなかったような気がして、一瞬前の記憶を掘り起こす。確かに、ヒビキがつけている指輪を見て興奮したのは確かだが、ヒビキの匂いには何の違和感もなかった。休憩室で嗅いだ時と同じ穏やかで心が落ち着く匂いだったような気がする。
ということは、ヒビキとタマルはまだ身体を繋げていないのだろうか。それとも、俺の憶測の通り、ヒビキとタマルは付き合っているふりをしているだけなのだろうか。そうであるなら、タマルの事情を明るみにすれば、二人の仲を引き裂けるかもしれないと思い始める。
俺は執念深い狼の本能を感じながら、出てきた一縷の望みにかけて、タマルの素性を徹底的に暴くことにした。
普段の業務に加えて、タマルのことを調べていると、手がいくつあっても足りないくらい忙しい。
忙しいながらも調べていくうちに、ウルフワム打倒連合軍は単なるテロ組織ではなく、様々な業界のプロが集まる危険な集団だと言うことが分かってきた。
特に、洗脳術については、これまでの犯罪の手口から、常套手段として使われていることが分かった。罪のない一般市民を自分達の駒として使い、犯罪を行なっているのだ。
洗脳のやり方については、詳しい資料がない。現時点で分かっていることは、バロンの言う通り、洗脳された本人は、ウルフワム打倒連合軍の指示であるにもかかわらず、自分の意志で動いているように感じるということだ。
また、洗脳できる人とできない人がいるということも分かった。洗脳できるかできないかは、洗脳のかかりやすさの問題ではなく、本人の素因に関係している可能性が高いのだという。
そして、ウルフワム打倒連合軍の洗脳は強度なものであるため、長期間にわたり洗脳されたままだと、必ず強い頭痛に襲われるのだそうだ。そうなると、洗脳されていることが客観的に判断できる要素は頭痛しかないことになる。
俺が鬼気迫る様子で仕事をしていると、突然、個人のスマホから音が鳴った。ディスプレイに映し出された番号を確認すると、マンションの管理会社からだったので、通話を始める。
電話口の担当者はどこか慌てた様子で、話し出した。伝えられたのは、気の滅入るようなトラブルだった。担当者から事情を聞いた俺は電話を切り、溜め息を一度だけついてから、執務室を出て、横の部屋にいるバロンのところへ向かう。
「バロン。いるか」
「どうした」
バロンは、俺の執務室と違い、机の上に沢山のモニターを置いている。俺の呼びかけに対して、どうしたとは言いつつも、キーボードを叩く音は止まらない。
「さっき、俺のマンションの管理会社から電話が来た。部屋の水道が壊れて、部屋全体が水没したらしい。改修するから、しばらく住めないと言われた。管理会社も代わりのマンションを見つけられていないらしく、少なくとも今日は、自分で泊まるところを見つけてくれと言われた」
「そりゃ災難だな」
バロンは、俺の話を聞きながらもタイピングを続けている。
「それで、今日泊まるためのホテルを調べたんだが、明日開催される国際サミットで、都内のホテルはどこも満室のようだ。だから、今晩だけでいいから、お前のところに泊めてくれないか」
そこまで言って、ようやくタイピング音が止まる。そして、バロンがモニターの隙間から、顔を出した。
「は?無理に決まってる。俺の家には愛しい番がいるんだぞ。お前を入れられるわけないだろう」
そして、瞬時に却下された。番ができた狼獣人は、他人にプライベートを踏み込ませない。家族は各々のテリトリーになるからだ。そして、バロンは、最近番を得たばかりなので、縄張り意識が一番強い時だ。
ダメ元で聞いてみたので、拒否されることは予想はついていたが、自分の恋が上手くいっていない俺は疲れもあり、少しだけ苛ついてしまう。
「毛を逆立たせるな。分かったよ。社宅なら空きがあるんじゃないか。今、少し調べてみるから待ってろ」
バロンは俺の苛立ちを察して、すぐに別案を出してくれる。
「悪い。頼む」
俺は大人気ない自分の反応を恥じて、バロンの執務室に置かれている丸椅子に座る。
バロンはカタカタとキーボードを叩き、社宅のデータにアクセスしているようだ。社宅関連は人事しか見れなかったような気がするが、バロンにとっては内部セキュリティなど無いも等しいのだろう。
「社宅関連はこのファイルだな。……へえ、そうか」
バロンは何かを見て、意外なものを見たように目を瞬かせる。俺が疑問に思う前に、バロンは全てを終えていた。そして、この後のことを俺に教えてくれる。
「社宅はどうやら人気のようで、空いている部屋は一つしかなかった」
「そうか」
社宅が人気だということは知らなかった。そうであるなら、増築も検討するべきだろうか。
「人気なのは今だけだから、増築とかは考えるなよ。それで、お前のマンションが改修されるまで泊まれるように手配した。最低限の備え付けの家具はあるから、寝泊まりは出来るだろう。後で、人事から社宅の鍵を届けさせる。そこに部屋番号は書いてある」
「仕事が早いな。恩にきる」
思考を先読みされてしまったが、手際よく今後の流れを説明してもらい、ひとまず安心する。どこも見つからないようであれば、執務室の床で寝ようと考えていたから、はるかに良い寝床を確保できた。
「幸運を祈ってるよ」
バロンに礼を言うと、よく分からないことを言ってきた。それには深く言及せずに、バロンの執務室を出る。
それから一時間ほどすると、人事から鍵が届いた。鍵には小さくアルファベットと数字が書いてある。これが、バロンが手配してくれた部屋番号だろう。
仕事を終えて、部屋番号がある棟を確かめながら、社宅にやって来た。俺はこれまで社宅に住んだことはないため、初めて足を運ぶ。夜なのではっきりとは見えないが、クリーム色の外装はところどころ煤けている。
そして、部屋番号が書かれた銀色のプレートを見つけた。鍵を差し込み、古めかしい深緑色の扉を開こうとした瞬間、右側のふたつ隣にある部屋の扉が開いた音が聞こえて、思わず音のした方を見る。すると、そこには、とても驚いた様子でこちらを見るヒビキがいた。
「ヴィッセル指揮官……っ!どうしてこのフロアに?」
その驚いた顔を見て、バロンに仕組まれたのだと察した。
「ヒビキ?!……っくそ、バロンめ」
思わず悪態をついてしまう。バロンはヒビキがこのフロアに住んでいることを知って、あえてこの部屋を用意したのだろう。今は近寄らないほうが良いと言っていたのに、どうしてだと混乱する中、ヒビキが話しかけてくる。
「ど、どうかされましたか?」
「いや、ヒビキはこの部屋の隣に住んでいるのか?」
俺は混乱を隠し、ヒビキに尋ねる。今出てきた部屋から、俺の右隣の部屋に入ろうとしていたところを見ると、そこがヒビキの部屋なのかもしれない。
「はい。入省してからずっとこの部屋です」
よく見ると、ヒビキは私服のようだ。大きめのTシャツを着る姿が可愛らしくて、胸が高鳴る。
「そうか……」
「あ、あの、ヴィッセル指揮官はなぜここにいらっしゃるんですか?ここは若手のフロアです」
ヒビキはまだ混乱しているようだ。俺は素直に事情を打ち明ける。
「俺が住んでいるマンションが改装することになって、その間の仮住まいだ。自分で探す暇がなくて、バロンに頼んでいたんだが、空いている部屋がここしかないと言われてな」
「そ、うですか……」
俺達が立ちすくんでいると、ヒビキの後ろからタマルの声が聞こえた。今し方、ヒビキが出てきた扉から、タマルが顔を出した。
「ヒビキ、うちにコーラがあるぞ……って、ああ、指揮官じゃないですか」
「タマル」
タマルと話すのはこれが初めてだ。それなのに、タマルは俺を見て勝ち誇ったように笑う。それが無性に腹立たしく、腹に力をこめて感情を抑える。
「君達の部屋は隣同士なのか」
「そうですよ。恋人同士なのでとても助かってます」
"恋人同士"をわざと強調して伝えてくるところを見ると、タマルは俺がヒビキに懸想していることを知っているのかもしれない。敵を噛みちぎり、屠ってしまいたい。そんなどす黒い感情に引き摺られそうになるが、必死に耐える。
「……そうか。休みだからといって羽目を外しすぎないように」
「あ、はい」
最後は余裕がなくなり、そっけない言い方をして、俺は自分の部屋に入った。
タマルもいることは腹立たしいが、隣の部屋にヒビキがいると思うと、落ち着かない気持ちになる。気持ちを沈めるため、最低限しかない殺風景な部屋の中で、腕立て伏せを延々と繰り返していた。
翌朝、バロンの執務室に行き、 問答無用で詰めよる。俺とバロンは終わらない仕事を抱え、土曜日にも関わらず出勤していたから、周りに他の職員はいない。
「バロン。お前、仕組んだだろう」
低い唸り声と共に、バロンに訴える。腕立て伏せをやり過ぎたせいで寝不足気味のため、自然と機嫌が悪くなる。
「会えたのか。よかったな」
バロンはコーヒーに口をつけながら、俺の怒りはどこ吹く風だ。その様子を見て、全て知っていて、あえてあの部屋を手配したのだと確信する。
「よかったなじゃない。お前は、俺にヒビキとは会わない方がいいと言っていただろう。どうして余計なことをする」
「俺が本気を出して調べても、アカツキ・タマルは尻尾を掴ませない。認めるのは癪だが、ウルフワム打倒連合軍にも頭の切れるハッカーがいるんだろう」
「それがどうした」
「このままイタチごっこを続けても、ウルフワム打倒連合軍の本丸には近づけない。それに、アカツキ・タマルが黒だった場合、このままだと急に行方を眩ませる可能性もある。そうすると、これまでやってきたウルフワム打倒連合軍に関する調査が全て白紙に戻る。それだけは避けたい。だから、お前という囮を用意して、向こうからボロを出すように仕向ける作戦に変える。人は予想外のことが起きた時、ボロを出しやすいからな」
「……」
ウルフワム打倒連合軍が難攻不落であることは、俺が調べただけでも分かった。しかし、このまま世間にのさばらせておけば被害者は増える一方だ。
バロンは、ウルフワム打倒連合軍を一網打尽に出来る機会が見つからず、手をこまねくしか出来ず、かなり焦れていたのだろう。タマルを逃せば、これまでにないチャンスをふいにすることは俺でも分かる。
「タマルはお前が近くに越して来たことで、内心はかなり動揺しているだろう。どういう形かは分からないが、じきに尻尾を出す。その瞬間に首元を掻っ切れば良い」
俺は、優秀なハンターである親友を見て、黙ることしか出来なかった。
バロンの理屈は分かるが、もしヒビキとタマルが仲良さげに話している声や喘ぎ声が聞こえてきたら、俺はどうなるか分からない。
なので、しばらくは忙しさを理由に、誰もが寝静まった夜更けまで仕事をして、帰るようにしていた。けれど、そんな生活をいつまでも続けていられるわけはなく、俺はしばらくぶりに日付が変わる前に社宅に帰ることにした。
玄関を開けると、前と同じ殺風景な部屋が俺を出迎えた。夕飯は食べてきたので、シャワーを浴びて寝てしまおうと、隊服のボタンを外しかけた時、インターフォンが鳴った。
そして、扉の外から控えめな声が聞こえた時、俺は耳を疑った。
「ヴィッセル指揮官、すみません。ヒビキ・ホンマです。いらっしゃるようでしたら、いま少しお時間いただけないでしょうか」
「ヒビキ……?……少し待っていろ」
俺の耳が可笑しくなり、ついに幻聴が聞こえ始めたのかと思ったが、扉を開けると、ヒビキが立っていた。仕事から帰って来たばかりなのか、ワイシャツ姿だ。
「いきなりどうした。仕事のことか」
突然の訪問に戸惑う。何か困っていることがあったのかと思い、尋ねる。
「い、いえ……」
そうすると、ヒビキは何かに怯えるように首をすくめる。よく見ると、目の下のクマはますます酷くなっており、顔色も悪い。その様子を見て、もしかしてウルフワム打倒連合軍の洗脳下にあるかと勘繰る。しかし、真実は分からない。もし洗脳されていたとしても、ヒビキにも分からないのだから。
それに、もし洗脳されていないとしたら、こんな状態の番をケアしないなんて、タマルは何を考えているのかと苛つく。名前を出すのも癪だが、ヒビキに問う。
「……タマルはどうした」
「え?ア、アカツキ、は……あの……」
言い淀むヒビキに、部屋の中に入るように言う。部屋に入ってきても、まごついたままのヒビキは突如、一粒の涙を溢した。
「っすみません」
その雫がまろい頬を伝う。少し赤く色づいた頬は、柔らかそうで、思わず喰みたくなる。俺はその衝動を堪えて、少しでも落ち着くようにわ背中を撫でる。そうすると、ヒビキは少しだけ落ち着いた様子で、話し出した。
「す、すみません……。僕、彼の気持ちが分からなくて……。頭の中がぐちゃぐちゃで……。僕、どうしたらいいのか……」
ヒビキはかなり混乱しているようだ。"彼の気持ち"と言うことはタマルのことを指しているのだろう。俺以外の誰かを想い泣くヒビキを見て、胸が締め付けられる。
「……タマルが浮気でもしたのか?」
断腸の思いでそう聞いた瞬間、胸に愛しい存在が飛び込んできた。俺の心臓は大きく跳ねると同時に、心の中の僅かに残っていた理性が消え去った。
初めて会った日から運命として決まっていたとおり、この番を奪い取り、必ず俺のものにする。しばらくは前の番を想って、泣いて悲しむかもしれないが、俺の全てをかけて守り、愛しもう。
ヒビキが俺の元にやって来た理由は分からない。けれど、洗脳であれ、タマルの浮気のせいであれ、この手に堕ちてきた愛しい番をもう二度と逃すつもりはなかった。
「僕、じゃだめですか?」
ヒビキは、俺の中に生まれた獰猛な獣を知らずに、可愛らしいことを尋ねてくる。
「僕、寂しくて……だから」
「……君達の関係がどうなっているのか分からないが、ヒビキが望むのなら、俺が側にいよう」
「……ほんと、ですか」
「ただし、タマルとの仲が戻るまでだ。それでもいいか」
「……はい」
タマルが戻って来たとしても、もう手放す気はない。俺は少しも思っていない戯言を吐いて、ヒビキを安心させる。ヒビキは少しだけ安心したように息を吐いた。こんな些細な演技でヒビキなら心が入るなら安いものだ。
それから、俺は、タマルの不在を埋めるために、ヒビキの側にいることになった。側から見れば、俺は都合よく扱われているように見えるかもしれない。
ヒビキに近づくため、あえて小さなソファを選んだりもした。そのソファでヒビキと触れ合いながら映画を観たが、横にいるヒビキが可愛くて内容は全然見ていなかった。
初めてキスをした時には、ヒビキが可愛すぎて、夢中になってしまった。初めてと言われて、ますます興奮してしまった。
思いが高まるにつれて、ヒビキの薬指についた指輪が忌々しく思えた。二回目のキスをした際に、左手の薬指に嵌まった指輪をするりと抜いて、ヒビキには分からないように力に任せて握り込んだ。そうすると、銀色の指輪は瞬く間に、掌の中で金属の屑になった。
ヒビキは指輪を無くしたことを悲しむかもしれないが、俺が首輪を用意しよう。これは俺の番だ。
――ガムラさん、いえ、ヴィッセル指揮官。今日は僕達の結婚式に来ていただいて、ありがとうございます。
――ヒビキ?
目を開けて、まず最初に見えたのは、真っ白なタキシードに身を包んだヒビキだった。そして、ヒビキの隣には同じようなタキシードを着た男が立っている。その男の顔はなぜか雲がかかったように鮮明でない。その顔の見えない男は、ヒビキの腰を抱くように腕を回している。その光景に苛立った俺は、思わずその腕を外そうとするが、その時はじめて身体が動かないことに気がつく。
――いままでお世話になりました。僕達、幸せになります。
パニックになる俺を無視して、ヒビキは隣に立つ男の方を向きながら微笑む。その笑顔が本当に幸せそうで、焦る。その笑顔は俺に向けられるはずものだ。なぜそんな男に見せるのか。そして、ヒビキから俺以外の匂いがすることに気がつく。あれだけ深く匂いをつけたのにどういうことだ。
――ま、待て。なぜお前は俺以外の匂いをつけているんだ。
――何を言っているんですか。僕はガムラさんの匂いなんて知りません。だって、僕は彼のものですから。
思わずヒビキに尋ねる俺を、ヒビキは冷たい目で見て、横に立つ男の腕にしなだれかかる。もしかして、そんな馬鹿なことがあるか。ヒビキと番になれたというのは、全て夢だったなんて。
――なっ!ま、待て!ヒビキ!!
夢の中で絶叫した瞬間、身体が動くようになった。じっとりの冷や汗をかいた俺の目の前には、見慣れたマンションの天井が映っていた。
そして、少し横を見ると、俺の腕を枕にして穏やかに眠るヒビキがいた。俺は数回深呼吸をして、ようやく先ほどの光景が夢だったことを知る。
ベッドも脇にあるデジタル時計を見て、既に夜中の1時であることが分かる。そこまで意識が覚醒して、酷い悪夢を見た理由が分かった。ヒビキがタキシードを着ていたのは、明日、いや今日が俺とヒビキの結婚式だからだろう。
俺とヒビキは紆余曲折を経て、思いを通じ合った後、すぐにパートナー届を出した。俺が一刻も早くヒビキの番であるという証明が欲しかったからだ。その後すぐ、ヒビキが俺の子を身ごもっていることが分かった。祖父やバロンには説教されたが、ヒビキは家族が増えることを喜んでくれた。
そして、祖父の強い勧めで結婚式を行うことになった。孫の門出を祝いたいのだと思う。それが明日執り行われる。近親者だけのこぢんまりとしたものだが、俺はとても楽しみにしている。
そのはずだった。けれど、先ほど見た夢のせいで、俺はまだヒビキが誰かに奪われる不安を拭いされていないのかもしれないと思う。どれだけ俺の匂いをつけても、魅力的な番が誰かに掻っ攫われるかもしれないと深層心理で感じているのだろうか。
俺はやけにリアルだった夢を忘れるため、横で眠るヒビキに口付ける。意識がないヒビキの舌に、性急に自身の舌を絡める。甘い口内をまさぐり、舌を吸う。
「んんっ……ふあ……」
ヒビキが息を漏らした。その甘い声に興奮が煽られていくのが分かる。何度貪っても飽きることのない甘露を味わう。
そして、そっとヒビキの体に手を伸ばす。横向きで寝ているヒビキのパジャマの上から、胸を触る。何度も触れたそこは、どこに乳首があるか分かるようになった。まだ柔らかいそこを親指と人差し指で捏ねる。
「ん、んっ……」
そうすると、ヒビキの眉がぴくりと動く。しかし、まだ起きる気配はない。乳首は徐々に芯を持ち始め、パジャマの上から尖りが分かるほどになってきた。
「ヒビキ」
俺は熱の篭り始めた声で、ヒビキを呼ぶが、まだ眠りの世界にいるため、反応がない。そのままゆっくりと服の中に手を入れ、直に突起に触れる。
「はぁ……ん、ん……」
ヒビキは小さく喘いだ。起きたかと思ったが、まだ目は開かない。俺はもはや止められず、ヒビキの下肢に手を伸ばす。そこは可愛らしいものがゆるく立ち上がっていた。
俺は、俺とヒビキのズボンを降ろして、二つまとめて扱く。
「あ、あ、や、ガムラさん……?」
「やっと起きてくれたな」
そこでやっと異変に気づいたヒビキが目を覚ます。俺はヒビキを仰向けにして、二人のものを扱きながら、ヒビキの股を広げ、後孔に触れた。
妊娠してからヒビキの後孔は、出産に適合するかのように柔らかくなっている。医師にもお互いの気持ちが高まった時であれば身体を繋げてよいと言われている。
少しだけ愛液が溢れるようになった後孔に人差し指を入れると、そこは熱く、指を引き込むような動きをする。
「なにして、んんっ、そこはっ、だ、めぇっ」
「ヒビキ。中に入らせてくれ。お前の奥に出したいんだ」
ヒビキの後孔のいやらしい動きに興奮した俺はそう言いながら、中指を増やし、ヒビキのしこりをいじる。ヒビキはここが好きだ。すぐに前から先走りを漏らし始めた。
「や、あ、んんんっ。でも、あ、あかちゃん」
「子どもがいるところは仮腹で、セックス自体は問題ないと医者も言っていただろう」
「ん、あ」
「優しくするから」
最後にキスをしながら言うと、ヒビキは頬を染めて頷いてくれた。俺は既に爆発しそうになっていた剛直をヒビキに突き入れた。
「は、はい……。んっ!あああっ」
ヒビキは俺が入れた途端、精液を漏らす。その様子がいやらしくて、俺は腰を打ちつける。
「ああっ、ん、あ、そこ、いや、ゃああっ!!」
ヒビキは快感から逃げるように腰を逃がそうとするが、俺はヒビキの腰を掴み、引き寄せる。堪らないように髪を振り乱すヒビキがいやらしい。
俺は精液を漏らしたままのヒビキをさらに扱き、更なる絶頂へ向かおうとする。
「いやっ、だ、めぇっ、ひゃ、ああんっ、ああああっ」
「っお前は俺のものだっ……!」
ヒビキがドライオーガズムに達した時、俺もヒビキの奥深くに種を放った。
翌朝、ヒビキは恥ずかしそうにしながらも、結婚式会場に着く頃には、楽しげに笑っていた。真っ白のタキシードもとてもよく似合っている。俺とお揃いのそれは、二人が番になることの証のようで、俺も機嫌がよかった。バロンが余計なことを言うまでは。
「ふーん。結婚式の前日だってのにお盛んだな。これだと、出席者全員に丸わかりだ」
「ヒビキは俺のものだから、何も問題はない」
バロンはヒビキの隣に行くと、スンと鼻を鳴らして、皮肉を言う。その皮肉は、ヒビキがいつもより濃い匂いをさせているからだろう。
狼獣人の匂いは、番の身体に染みついてはいるものの、身体の奥深くに精液を出した翌朝は、いつもより数倍濃い匂いがする。つまり、狼獣人には、その個体が前日にセックスしたかということがはっきり分かるのだ。狼獣人は慣れているため、突然匂いが濃くなった個体がいても、番と仲が良いのだなとしか思わない。
「えっえっ」
「これだと第二子もあっという間だな」
そう言いながらも、俺の結婚を祝ってくれているのは知っている。
ヒビキが戸惑っていたので、セックスの翌日は匂いが濃くなるから、周囲には分かるものだと伝えると、ヒビキは顔を真っ赤にして、鍵のかかるフィッティングルームにこもってしまった。
「今日は、みんなから、なにか言いたげな目で見られてるとは思ってたんですっ」
「ヒビキ?」
「ガムラさんは分かっていて、昨日あんなことをっ……。も、もうっ!ガムラさんなんて知りませんからっ」
「ヒ、ヒビキ、待ってくれ」
日本人は貞節を重んじるから、セックスを恥ずかしがることを忘れていた。俺はヒビキの地雷を踏んでしまったのかもしれない。
「ガムラ、ヒビキくん。用意は出来たか?」
俺とヒビキが揉めている中、祖父が俺達を見にやって来た。俺はそれどころではなく、フィッティングルームにこもってしまった愛しい番に許しを乞う。
「お前が可愛くて我慢が出来なかったんだ。頼む。許してくれ」
「ゆ、許しませんっ。結婚式はお一人でお願いしますっ」
「ヒビキ……」
その様子を見ていた祖父が、地面が割れそうになるほどの大声で爆笑し、澄み切った青空に木霊した。
終
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